第23話 ママにだけは、わかってほしい
誰にも言えない秘密を抱えた人間にとって、唯一の理解者の存在は、暗闇に灯る最後の街灯のようなものだ。
深夜零時。
配信を終えてから一時間以上が経っても、自室の電気を点ける気にはなれなかった。
青白いPCモニターの光だけが、机の上に置かれた手鏡と、私の強張った指先をぼんやりと照らしている。
画面には、Discordのチャット画面が開かれていた。
相手のアカウント名は『花守しずく』。
メッセージの入力欄に、私は書いては消し、書いては消しを、もう十回以上も繰り返していた。
『最近ちょっと配信がうまくいかなくて』
『ミウちゃんの笑顔が、前よりぎこちなくなっちゃってて』
『どうしたらいいか分からなくなりました』
どれも違う。
こんな重苦しい愚痴を、売れっ子イラストレーターであるしずくママに送りつけるなんて、迷惑以外の何物でもない。
ママは私の親でもなければ、カウンセラーでもないのだ。星祈ミウという最高のビジュアルを描き下ろしてくれた仕事のパートナーであり、恩人なのだから。
「……送れるわけ、ないよね」
自嘲気味に呟き、バックスペースキーを長押しして文字をすべて消去しようとした――その時だった。
ポロン、と澄んだ通知音が鳴った。
『花守しずく:澪ちゃん、まだ起きてる?』
心臓が跳ね上がった。
入力中の表示が見えていたのだろうか。それとも、さっきのぎこちない配信を見てくれていたのだろうか。
『花守しずく:もしよかったら、少しだけお話しできるかな?』
迷いは一瞬だった。
プライドも、迷惑をかけたくないという遠慮も、いま私の胸を満たしている圧倒的な寂しさと心細さの前には、何の役にも立たなかった。
私は震える指で『大丈夫です、通話できます』と返し、かかってきた通話リクエストの緑色の受話器ボタンをクリックした。
「――もしもし、澪ちゃん? 夜遅くに急にごめんね」
ヘッドホンの向こうから流れてきたのは、耳を包み込むような、柔らかくて落ち着いた大人の女性の声だった。
ただその第一声を聞いただけで、張り詰めていた喉の奥の筋肉が、じわりと熱を帯びて緩んでいくのが分かった。
「……ううん、大丈夫です。ママ、お仕事中だったんじゃないですか……?」
「うん、原稿の合間の休憩中。……さっきの配信、アーカイブで少しだけ見たよ」
その言葉に、私の息が止まりそうになった。
見られていた。
あんな、語尾の吐息も短く、笑うタイミングも遅れ、ギプスを嵌めたようにぎこちなかった星祈ミウの姿を、彼女の生みの親に見られてしまったのだ。
「ごめんなさい……! 今日の私、全然可愛くなくて……ミウちゃんの魅力を壊しちゃってて……!」
咄嗟に謝罪の言葉が口を突いて出た。
けれど、しずくママから返ってきたのは、叱責でも困惑でもなく、クスッと小さく微笑む吐息だった。
「壊れてなんかないよ。リスナーのみんなも、すごく楽しそうにしてたじゃない」
「でも……! 私には分かるんです。声が硬くて、笑えてなくて……前みたいに、自然にミウちゃんでいられなくなってて……」
堰を切ったように、言葉が零れ落ちていく。
前世がおっさんであることや、輪廻転生のことなど、絶対に言えない秘密は胸の奥に厳重に鍵をかけたまま。
けれど、見つかるほどに増えていくノイズの言葉、中の人を暴こうとする無遠慮な視線、そして「可愛くあること」が義務のようになってしまった苦しさを、私は拙い言葉で必死にしずくママへ差し出していた。
しずくママは、私の話を途中で遮ることなく、相槌を打ちながら静かに最後まで聞いてくれた。
そして、私が話し終えて部屋に沈黙が落ちた後、彼女は優しく、けれど確かな芯のある声でこう言った。
「……澪ちゃんはね、星祈ミウちゃんのことを、本当に一ミリ単位で大切に愛して作っているからこそ、苦しいんだと思うよ」
「え……?」
「適当にやってる子ならね、通りすがりの雑な言葉なんて右から左へ受け流せるの。でも澪ちゃんは、声の出し方も、表情の動かし方も、全部自分の命みたいに大事に磨いてきたでしょう? だから、それを軽く消費されたり、壊されそうになったりするのが、誰よりも痛いんだよ」
胸の真ん中を、温かい光で貫かれたような気がした。
そうか。
私は、自分が面倒くさくて我儘なオタクだから傷ついているのだと思っていた。
プロ失格の脆いメンタルだから、些細なコメントに過剰反応しているのだと自分を責めていた。
でも、違ったのだ。
私が誰よりも真剣に、この「星祈ミウ」という理想の自分を大切に守ろうとしていたからこそ、痛かったのだ。
「ママ……」
「澪ちゃんのこだわりは、絶対に間違ってないよ。私が描いたミウちゃんに、世界で一番可愛い魂を吹き込んでくれてるのは、他の誰でもない澪ちゃんなんだから」
目頭が熱くなり、ぽろりと大粒の涙が頬を伝ってデスクに落ちた。
救われた。
何万人の見知らぬリスナーから「かわいい」と持て囃されるよりも、この世界でたった一人、私の美学のすべてを見抜いてくれた神絵師ママからのこの一言が、私の凍りついた魂を跡形もなく溶かしてくれた。
……いけない、三十代の男だった前世の自分がいたら「若手社員の愚痴を完璧に受け止めてモチベーションを跳ね上げる神上司かよ」と全力でひれ伏していたところだ。おっさん臭い比喩! 神聖なママとの時間にノイズを混ぜるな、脳内議事録から即座に抹消!
「……ありがとう、ございます。ママにそう言ってもらえて……すごく、楽になりました」
「ふふ、よかった。困った時は、いつでも頼ってね。私、澪ちゃんのママなんだから」
優しい通話が切れた後、自室の静けさは、さっきまでの冷たい闇ではなくなっていた。
胸の奥に、確かな温もりが満ちていた。
私には、この人がいる。私の理想を正しく理解してくれる人が、たった一人でもこの世界にいてくれる。
――けれど。
机の上のPCに映るしずくママのアイコンを見つめながら、私の心のどこかに、小さく冷たい影が差したのもまた、紛れもない事実だった。
私は今、しずくママの言葉がなければ、呼吸すらできなくなっていた。
もしも――もしもいつか、この人すらも私のそばからいなくなってしまったら、私はどうなってしまうのだろう。
救われたという安堵の裏側に、甘美で危険な「依存」の香りが、微かに漂い始めていた。




