第22話 かわいいは、壊れやすい
完璧なガラス細工は、指先で触れるだけで粉々に砕け散りそうなほど、冷たくて、脆い。
火曜日の放課後。
自室に戻った私は、いつものように制服のブレザーを脱ぎ、遮音ドアの鍵を二重に閉めた。
机の上には、いつも通りの高性能コンデンサーマイク、手鏡、保湿スプレー、そしてノート。
配信開始の二十分前。ここから発声練習を行い、口角を上げ、星祈ミウという理想の少女のスイッチを入れる――それが、デビュー以来一日たりとも欠かしたことのない私の神聖な儀式だった。
「……あ、え、い、う、え、お、あ、お」
手鏡に向かって発声する。
けれど、マイクを通したモニターヘッドホンから返ってきた自分の声に、私は息を呑んだ。
(……硬い)
声帯の振動が、妙に張り詰めている。
いつもなら自然に乗るはずの、二百十ヘルツ帯の甘やかな倍音が抜けている。喉の奥に鉛が詰まったように呼吸が浅く、息が胸の浅いところで止まってしまう。
「ふふっ、みんな、こんばんは……っ」
鏡の前で微笑んでみる。
だが、映っている自分の目元は、どこか引き攣っていた。
小首を右に傾ける角度も、普段なら無意識に八度でピタリと止まるはずなのに、今日は首筋の筋が張って十度以上も傾いてしまう。
ここ数日、頭から離れないコメントの残像。
ネットの海に溢れる『声作ってる』『男ウケ狙いすぎ』『中の人何歳?』『素顔見たい』という言葉――。
無邪気な好奇心と消費の刃が、私の神経を休まる間もなく逆撫でし続けていた。
隙を見せてはいけない。一ミリでも素の雨宮澪が漏れ出たら、すべてが終わる。
そう自らに命じ続けた結果、私の身体は、全身にギプスを嵌められたかのように強張ってしまっていた。
「……大丈夫。私はプロなんだから。本番になれば、ちゃんとできる」
私は喉に保湿スプレーを吹きかけ、無理やり口角を吊り上げて配信開始ボタンを押した。
「みんな、星空の彼方からこんばんは! 星祈ミウだよ〜!」
配信が始まる。今夜は話題の短編インディーゲームの実況枠だ。
チャット欄には、開始と同時に千人を超えるリスナーが集まり、歓声のログが滝のように流れていく。
『ミウちゃんこんミウ〜!』
『待ってたよ!』
『今日も衣装が最高にかわいい』
リスナーの反応は、いつもと変わらない。
私のリアクションに合わせて笑い、ゲームの展開に一喜一憂し、コメント欄は温かい熱気に包まれている。
客観的に見れば、何の破綻もない、順調な配信だった。
――けれど。画面の向こうでミウを動かしている私自身だけが、その「致命的なズレ」を、皮膚を切り裂かれるような痛みとともに感じ取っていた。
(語尾の吐息が、零コンマ二秒短い……!)
ゲームのキャラクターに驚いて声をあげた瞬間、喉が引き攣り、鈴の音のような澄んだ余韻が残せない。
笑い声をあげるタイミングも、普段なら画面の動きに合わせてミリ秒単位で同期させていたはずなのに、今日はコンマ三秒遅れる。
Live2Dの表情トラッキングの眉の動きも、私の眉間の強張りを拾ってしまい、微妙に険しい影を落としてしまう。
誰も気づいていない。
リスナーは誰も「今日のミウちゃん下手だな」なんて言っていない。
なのに、私には分かるのだ。
今日の星祈ミウは、私が人生を懸けて設計した「究極の可愛い」から、確実に数ミリ、数センチと乖離している。
(違う、こんなの私のかわいさじゃない……! もっとちゃんと笑わなきゃ、もっと完璧に……!)
焦れば焦るほど、肩に余計な力が入り、呼吸が乱れていく。
まるで、錆びついたゼンマイ仕掛けの人形が、軋む歯車を悲鳴のように鳴らしながら踊り続けているような感覚。
「――うん! それじゃあみんな、今日も最後まで見てくれて本当にありがとう! またね、おやすみなさい!」
一時間の予定を、五十分で無理やり切り上げた。
配信終了ボタンをクリックした瞬間。
「……っ、はぁ……っ!」
私はヘッドホンを投げ捨てるように外し、デスクの上に突っ伏した。
息が苦しい。胸が激しく波打っている。
かつてない凄まじい疲労感が、全身の骨という骨を押し潰すようにのしかかってきた。
手鏡も、反省ノートも、開く気力が湧かない。
指先ひとつ動かすことすら億劫だった。
「……なんで、こうなっちゃったんだろう」
暗い部屋の中、弱々しい独白が零れ落ちる。
星祈ミウでいることは、私の人生の至福だったはずだ。
前世で何ひとつ叶わなかった「可愛い女の子になりたい」という切実な祈りを、ようやく現実に定着させることができた、奇跡のような救済の場だったはずだ。
それなのに。
いつからだろう。
星祈ミウでいることが、「幸福」ではなく、「崩してはならない過酷な義務」にすり替わってしまったのは。
見つかれば見つかるほど、愛されれば愛されるほど、失うことが怖くなる。
少しでも完璧から外れれば、あの一万五千人の群衆が一斉に手のひらを返し、私の聖域を踏みにじっていくのではないかという恐怖に、魂がすり減っていく。
可愛いということは、こんなにも脆く、壊れやすいものだったのか。
一度ヒビが入れば、二度と元には戻せない、張り子の虎のような虚構だったのか。
……前世のくたびれた男の記憶が、頭の片隅で冷ややかに囁く。
しょせん中身がおっさんの癖に、背伸びして完璧な美少女を演じようとするからだ、と。身の程知らずの自業自得ではないか、と。
「……違う、そんなことない……!」
私は両手で頭を抱え、自分の弱気な思考を必死で振り払った。
だが、震える指先は止まらない。
もう、一人きりの部屋で、自分の心だけでこの重圧を支え切ることは限界に近づいていた。
助けてほしい。
誰かに、この胸の苦しさを打ち明けたい。
でも、クラスの友達にも、家族にも言えるはずがない。前世のことなんて、絶対に言えない。
暗闇の中、私の視線は、PCのモニターの片隅――Discordのフレンドリストへと向かった。
そこに並ぶ、ただひとつのアイコン。
私の魂の輪郭を見抜き、この世界で一番美しい器を授けてくれた人。
『花守しずく』
震える指先で、私はマウスへと手を伸ばしていた。




