第29話 少しだけ、休む勇気
配信を休むと決めてから、丸一日が過ぎた。
放課後のチャイムが鳴り響き、ざわめき立つ教室を抜け出して帰宅する。
制服のブレザーを脱ぎ、クローゼットにかける。いつもならそこからが「戦場」だった。
急いで洗面所へ向かい、ぬるま湯で顔を洗って肌のコンディションを確かめ、保湿パックを貼りながらパソコンの電源ボタンを押す。配信開始の二時間前には必ずデスクに座り、喉の調子を整えるハーブティーを淹れて、機材のノイズチェックを終えておくのが私の絶対のルーティンだった。
けれど、今日のデスクは静まり返っている。
私は椅子に腰掛け、電源の入っていない真っ黒なモニターを見つめた。
画面には、薄ぼんやりと自分の顔が映っている。黒髪セミロングの、どこにでもいる女子高生・雨宮澪の輪郭だ。
「……何、してるんだろ」
ぽつりと呟いた声が、静かな防音室の壁に吸い込まれて消えた。
指先が、無意識のうちにマウスを探して動く。
長年の習慣とは恐ろしいもので、体が勝手に配信の準備を始めようとしていた。
パソコンを起動し、デスクトップが表示されると、反射的に配信ソフト『OBS』のアイコンをクリックしそうになる。
いっそ、今からでも「やっぱり今日配信します」と告知を出してしまおうか。
そんな考えが、喉元までせり上がってくる。
休むと言ったのは自分だ。
昨日、Xにポストした文章は、リスナーのみんなから温かい言葉で迎えられた。誰一人として私を責める人はいなかった。
それなのに、私の内側にある何かが、激しい警鐘を鳴らし続けている。
――休んでどうするの?
――立ち止まったら、その間に忘れられてしまうんじゃないの?
――何もしないでいる間に、あの繊細な可愛い感覚が、全部指の隙間からこぼれ落ちてしまうんじゃないの?
そんな焦燥感が、胸の奥で黒い渦を巻いていた。
まるで、かつて会社員だった頃の悪夢のようだ。
有給休暇を取ったはずなのに、スマホの通知が気になって落ち着かず、結局自宅で社内メールを開いてしまう昭和のモーレツ社員の哀愁――って、やめやめ!
女子高生のセンチメンタルな休日に、くたびれた社畜の亡霊を召喚しない! 脳内議事録から永久抹消!
私は小さく首を振って、マウスから手を離した。
けれど、やっぱり落ち着かない。
手持ち無沙汰にブラウザを開き、星祈ミウの公式アカウントを眺めてみる。
休止を告げたポストには、今も温かいリプライが届いていた。
『ゆっくり休んでね、ミウちゃん』『いつまでも待ってるよ』『自分のペースで大丈夫だからね』。
その優しさが胸に染みる一方で、心のどこかで「申し訳ない」という罪悪感がチクチクと針を刺す。
ファンを待たせている。活動を止めている。
それは配信者として、何よりも怠惰なことなのではないか。
一ミリ単位で完璧な可愛さを追求するはずのプロデューサーが、体調不良でもないのに休むなんて、甘えではないのか。
「……ちょっとだけ、声を出してみようかな」
そう呟いて、マイクのスイッチを入れようとした。
喉に力を込め、星祈ミウのトーン――真ん中のドから一オクターブ上のソの音で、愛らしい挨拶を紡ごうとする。
「こん、み……」
声が、掠れた。
喉が詰まったように、綺麗なソの音が響かない。
無理に作ろうとした高音が、喉の筋肉を痛々しく締め付けた。
息を吸い込むと、肺の奥がひどく重い。
全身の関節が、まるで鉛を流し込まれたように軋んでいた。
「……っ」
私はマイクから後退りするように、椅子の背もたれに体を預けた。
違う。喉の調子が悪いんじゃない。
心が、体が、完全に悲鳴を上げているのだ。
私はデスクの上に両肘をつき、手で顔を覆った。
指先がわずかに震えている。
ずっと、走り続けていた。
転生して女子高生になり、花守しずくママのイラストに出会って星祈ミウとして受肉したあの日から。
一日たりとも気を緩めず、頭の中を「どうすればもっと可愛くなれるか」で埋め尽くしていた。配信が終われば即座に反省会を開き、自分を減点方式で責め立ててきた。
それが幸福だったのは本当だ。
けれど、その裏で私は、知らず知らずのうちに自分の首を真綿で絞め続けていたのだ。
完璧でいなければならない。
少しでも崩れたら、星祈ミウという奇跡は消えてしまう。
そうやって自分に課した呪縛が、あの夜、ついに限界を迎えて弾け飛んだ。
「……私、本当に疲れてたんだな」
初めて、声に出して認めた。
疲れたなんて弱音は、前世の頃から口にするのが嫌いだった。
疲れたと言ってしまったら、そこで踏ん張りが利かなくなる気がしていたからだ。
でも、認めてしまった瞬間、張り詰めていた糸がふつりと切れたように、肩からすとんと力が抜けた。
私は静かに立ち上がり、パソコンのシャットダウンボタンを押した。
ファンの回転音が静まり、部屋の中に完全な静寂が戻ってくる。
いつもなら、この時間は配信前の最終確認で最も緊張感が高まっている時間帯だ。
時計の針は、夜の八時半を回っていた。
配信のない夜。
星祈ミウが声を届けない、ただの雨宮澪の夜。
ベッドに腰を下ろしてみる。
柔らかいシーツの上に仰向けに倒れ込むと、天井の白いクロスが目に入った。
部屋の外から、微かにリビングのテレビの音や、母親が食器を洗う生活音が聞こえてくる。
不思議な感覚だった。
ネットの向こうの何千人という視線から完全に切り離された、ただの四畳半の日常。
その空白が、少しだけ寂しくもあり――そして、驚くほど息がしやすかった。
「……吸える」
胸いっぱいに、深く息を吸い込んでみた。
誰の視線も気にせず、ミリ単位の表情筋の動きも意識せず、ただ肺を膨らませて吐き出すだけの呼吸。
それだけで、固まっていた胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
何も生み出していない時間。
努力も、成長も、数字の更新もない、ただ浪費されるだけの時間。
かつての私なら耐えられなかったはずのこの空白が、今は傷口にそっと当てられたガーゼのように心地よかった。
枕元に置いてあったスマホを手に取る。
画面を点けると、待ち受け画面に設定してある星祈ミウのイラストが光を放った。
神絵師・花守しずくが描いてくれた、淡い銀髪に星の瞳を宿した、世界で一番可憐な私の祈り。
画面の中のミウは、少し悪戯っぽく微笑んで、私を見つめている。
「……ごめんね、ミウ」
私は画面の少女の頬を、そっと親指でなぞった。
「少しだけ、待ってて。……私、あなたを捨てるつもりなんて、これっぽっちもないから」
立ち止まったからといって、星祈ミウが消えてしまうわけじゃない。
私が走るのをやめたからといって、あの子を愛していた情熱が嘘になるわけでもない。
むしろ、こうして何もない部屋で静かにあの子の姿を見つめていると、胸の奥底にある「好きだ」という純粋な灯火が、いっそう鮮明に浮かび上がってくるのが分かった。
走ることだけが、愛し方じゃない。
壊れてしまわないように、立ち止まって息を整えることもまた、この理想を守るための大切なステップなのだ。
窓の外を見ると、都会の薄い夜空に、小さな星が静かに瞬いていた。
焦らなくていい。
一歩ずつ、壊れてしまった心の手入れをしていくんだ。
私はスマホを胸の上に抱きしめ、静かに目を閉じた。
久しぶりに、何のアラームもかけない深い眠りへと、ゆっくりと意識が沈んでいった。




