第20話 そのかわいい、誰のため?
誰かに向けられる「かわいい」という言葉は、世界で一番甘くて、そして時に、一番残酷な刃物になる。
金曜日の夜。
私は定番のまったり雑談配信枠を取り、いつものようにデスクの前でマイクに向かっていた。
橘ユイカさんとのコラボ以降、私の配信の同時接続者数は安定して千五百人を超えるようになっていた。個人勢としては、間違いなく中堅上位へと駆け上がりつつある数字だ。
画面の左端に流れるチャット欄のスピードも、もはや肉眼で全行を追うのは不可能なほどに速い。
「――うん、そうなの。このショールの星のチャームね、しずくママが特別につけてくれたんだよ? 動くたびに、ちょっとだけ遅れて揺れるのがお気に入りなの」
私はカメラに向かって少しだけ背筋を伸ばし、肩を揺らしてみせる。
Live2Dの物理演算が滑らかに追従し、胸元の銀の星が、計算通りの遅延を持って可憐に弧を描いた。
『知ってる! 前回の記念配信で言ってたやつ!』
『揺れるチャームほんと天才的』
『今日もミウちゃんのおしゃれ可愛いよ〜!』
古参の星見守たちが、私の込めたこだわりを理解して温かく反応してくれる。
そのチャットを拾うたび、胸の奥がじんわりと温かくなる。私の設計は届いている。この場所には、ちゃんと私の美学を愛してくれる人たちがいる。
――けれど。
その直後、濁流のように押し寄せる新規コメントの中に、いくつかの言葉が鋭い棘のように突き刺さった。
『はい男ウケ狙いすぎ』
『あざといわ〜w こういうのが一番抜ける』
『もっと胸元アップにして喘いでよ』
『声作って媚び売ってスパチャ稼ぎ乙』
『ガワがえっちだから中身はどうでもいいわw』
息が、喉の途中で止まりそうになった。
マウスを持つ手の甲に、じわりと嫌な汗が滲む。
インターネットの配信サイトでは、日常茶飯事と言っていい類のコメントだ。女性VTuber、特に可愛いガワを纏った配信者であれば、誰もが通り雨のように浴びせられる、手垢のついた消費の言葉。
いちいち気にする方が負けだ。
スルーして、流して、何事もなかったかのように笑顔で次の話題に移るのが、配信者としての正しいプロの振る舞いであることくらい、痛いほど分かっている。
「ふふっ、男ウケ狙いすぎって言われちゃった。……でもね、ミウは女の子にも、星空が好きなみんなにも、可愛いって思ってもらえたら一番嬉しいんだよ?」
私は咄嗟に困り眉の表情差分を呼び出し、唇をほんのわずかに尖らせてみせた。
あざとく反論するのではなく、少しだけ寂しそうに、けれど相手を否定しない絶妙な小悪魔の微笑み。
『今の困り顔かわいすぎるううう!』
『アンチはスルーでいいよミウちゃん!』
『ミウちゃんが一番かわいいよ!』
チャット欄は即座にファンの擁護と絶賛で埋め尽くされ、棘のあるコメントは瞬く間に画面の彼方へと流されて消えていった。
表向きは、満点のリカバリーだった。
配信を止めず、空気を濁らせず、むしろファンの庇護欲を刺激して絆を深めるきっかけにすら変えてみせた。
――けれど。
私の胸の奥で、鉛のような重い感情がドロリと渦を巻いていた。
(……何なんだろう、この気持ち悪さは)
私は「かわいい」と言われたかったはずだ。
前世のくたびれた男の時代、決して手に入らなかったもの。生まれ直した雨宮澪の肉体ですら満たしきれなかった、純度百パーセントの「究極の愛らしさ」。
それを世界に見せつけたくて、誰よりも愛されたくて、私は星祈ミウを立ち上げたのだ。
それなのに。
彼らが書き連ねる「かわいい」「抜ける」「あざとい」という言葉を目にした瞬間、私の全身を走ったのは、歓喜などではなく、内臓を素手で掴まれたような強い嫌悪感だった。
なぜだ。褒められているのに。好意を向けられているはずなのに。
どうしてこんなにも、心が汚されたような屈辱を覚えるのか。
(……理解されていないからだ)
思考の海を潜り続け、私はようやくその答えの輪郭を掴み取った。
彼らが消費しているのは、私が一ミリ単位で構築した「星祈ミウの美意識」ではない。
単に「若い女の形をした都合のいい偶像」であり、「画面の向こうで媚びを売ってくれる安価な快楽の記号」にすぎないのだ。
私が何日も徹夜して推敲した台本も、周波数と倍音をミリ単位で整えた発声も、しずくママが魂を削って描いてくれた光の透過率も。
彼らにとっては、どうでもいいのだ。ただ「男ウケのテンプレ」というラベルを貼り、適当に欲望を投げつけて、飽きたら次の配信者へと乗り換えていく。
まるで、三日三晩煮込んだ極上のスープを、ラベルも見ずに一気飲みして「あー、喉渇いてたから助かったわ!」と缶ジュース感覚で捨てられたような無力感。
……またラーメン比喩だ。いけない、脳内議事録から強制消去。
「……はぁ」
配信を終え、すべての通信を切断した暗い自室で、私は机の上に突っ伏した。
頭がガンガンと痛む。
画面の前で維持していた笑顔の筋肉が、引き攣るように痙攣していた。
面倒くさい奴だと、自分でも思う。
数字が欲しくて、見つけてほしくて、チャンネルを広げたのは私自身だ。それなのに、いざ人が集まってくれば「私の意図通りに可愛さを理解してくれない」と裏で勝手に傷ついている。
プロとして、あまりにも青臭く、独善的で、我儘な自意識だ。
けれど、嘘はつけなかった。
妥協したくなかった。
私は、誰のために可愛い星祈ミウでいようとしているのか。
数字のためか? 名声のためか? それとも、画面の向こうの顔も知らない誰かの欲望を満たすためか?
机の上の小さな手鏡を覗き込む。
そこには、メイクの落ちかけた、不安そうに眉を寄せる雨宮澪の素顔が映っていた。
その時、PCの画面に通知音が小さく鳴った。
Xのメンション欄に、さっきの配信の感想が届いている。
『ミウちゃんの中の人、絶対可愛い女子高生だよね! 声が若いし素顔見てみたい!』
冷たい風が、背筋をスーッと撫でて通り抜けた。
消費される「可愛さ」の向こう側から、今度は私の「生身」を暴こうとする無邪気な手が、容赦なく伸びてこようとしていた。




