第16話 私より、少しだけ先にいる人
ノートパソコンの画面には、タイムスタンプが秒刻みで書き込まれたメモ帳が開かれていた。
【橘ユイカ先輩・配信傾向およびトーク構造分析】
・平均発話速度:毎分およそ三百五十文字(私の約一・六倍)
・コメント拾い率:一配信あたり平均四百件以上(拾うコメントの選別基準が絶妙。「ツッコミ待ち」を瞬時に嗅ぎ分ける動体視力)
・話題の展開力:一つの脱線トークから本筋へ戻すまでの平均ラップタイム、約一分三十秒。自然な相槌でリスナーの注意を逸らさない
「……化け物だ」
思わず呟きが漏れた。
この三日間、私は橘ユイカ先輩の過去アーカイブを片っ端から視聴し、その配信スタイルを徹底的に解剖していた。
見れば見るほど、凄まじい実力差だった。
私――星祈ミウの武器は、徹底的に作り込まれた『静的な芸術』だ。
一ミリも狂いのない表情、息を呑むような間、計算された視線誘導と甘い声の粒子。
一人でじっくりと空間を支配し、リスナーを甘やかな夢へと引きずり込む力なら、誰にも負けない自信がある。
けれど、ユイカ先輩の武器は正反対の『動的な生命力』だった。
まるで真夏の太陽のように明るく、どんな予期せぬコメントやゲームのハプニングが起きても、一瞬で笑いに変えてリスナーを巻き込んでいく。
彼女の配信には「間」が存在しない。沈黙を恐れるのではなく、沈黙そのものを会話のグルーヴで塗り潰してしまうのだ。
ピロン、とDiscordの通話リクエストが鳴った。
ヘッドホンを装着し、ゴクリと唾を飲み込んで通話ボタンを押す。
コラボ前日の、Discordでの事前打ち合わせだ。
「こ、こんばんは! 星祈ミウです。本日はお時間いただきありがとうございます……!」
ガチガチに緊張した私の第一声。
すると、スピーカーの向こうから、カラッとした明るい笑い声が飛び込んできた。
『あはは、ミウちゃんめっちゃ緊張してる!? こんばんはー! 橘ユイカです! そんな畏まらなくていいよー、ユイカ先輩でもユイカちゃんでも好きに呼んでね!』
「あ、は、はい……! ありがとうございます、ユイカ先輩……!」
声のトーン、抜けの良さ、親しみやすさ。
挨拶を交わした一瞬で、こちらの強張った警戒心をふわりと解いてしまう。
これが、一年間荒波のネット界隈を個人勢として生き抜き、三万人以上のファンを惹きつけてきた人の持つ「空気の支配力」なのだと肌で理解した。
『明日のコラボ、協力型の脱出パズルゲーム『アストロ・エスケープ』でいこうと思うんだけど、大丈夫そう? 宇宙船から二人で協力して脱出するやつ! ミウちゃんの星空のイメージにもぴったりかなって思って!』
「はい! 操作方法もチュートリアルを三周して確認済みです。謎解きのギミックやステージ構造も、一通り頭に入れてあります!」
『えっ、チュートリアル三周!? すごい真面目……! 私なんてぶっつけ本番でパニくる気満々だったのに! じゃあ明日はミウちゃんに頭脳労働全部任せちゃおうかなー!』
「えっ、あ、任せていただけるなら全力でナビゲートします……!」
『ふふ、冗談冗談! ミウちゃんが困ったら私がガンガン声出して盛り上げるから、安心して可愛いリアクションいっぱい取ってね。ミウちゃんのあの照れ顔、明日の配信でも生で見られるの楽しみにしてるから!』
気さくで、面倒見が良くて、こちらの緊張をユーモアで包み込んでくれる。
打ち合わせはわずか二十分ほどで終わった。
けれど、通話を切ったあとの私の自室には、重い沈黙が落ちていた。
「……優しい人だな」
ベッドに腰掛け、手鏡を見つめる。
先輩は優しかった。気負わなくていいと言ってくれた。
でも――だからこそ、痛感してしまうのだ。
私は、先輩の胸を借りるだけの「お荷物」になりたくない。
ただ隣でオロオロして、先輩に助けられて「ミウちゃん可愛いね」と愛玩動物のように扱われるだけのコラボなんて、私のプロデュース美学が許さない。
机の上には、私が作成した『明日の想定リアクションおよびゲーム攻略ノート』が開かれている。
全十五ページに及ぶ、びっしりと書き込まれた段取りとセリフの候補。
「……まるで、敏腕課長との同行営業前夜に想定問答集を丸暗記してる新人営業マンじゃないの」
自嘲気味に呟いて、すぐに両手で自分の頬を軽く叩いた。
「……って、大手クライアントへの同行で胃を痛めてた中年ヒラ社員の記憶! 脳内議事録から即座に抹消!」
おっさん臭い比喩だけど、今の私の必死さは、まさにそれだった。
前世の私は、結局あの優秀な先輩やエリートたちに気後れし、自分の殻に閉じこもったまま、冴えない人生を終えてしまった。
けれど――今世の私は違う。
私には、人生を賭けて選び取った、星祈ミウという最高のアバターがあるのだ。
トーク力では、どう逆立ちしたって一朝一夕で先輩に追いつけるわけがない。
場を回す技術も、機転の利くアドリブ力も、今の私には圧倒的に足りない。
でも――私には、私の武器がある。
花守しずく先生が命を吹き込んでくれた、世界一可憐な星祈ミウのビジュアル。
そして、私が一ミリ単位で磨き上げてきた、相手を心地よくさせる仕草と、空気を壊さない繊細な声のトーン。
太陽の隣に立つなら、私は私らしく、静かで美しい星の光として輝けばいい。
先輩のテンポに無理に合わせようとして自滅するのではなく、先輩の放つ熱量をふわりと受け止めて、ミウにしかできない甘やかな引力を添えるのだ。
「明日は……私のすべてをぶつける」
ノートを閉じ、デスクの照明を落とす。
胸の奥で、緊張と闘志が心地よく混ざり合い、静かな熱を放っていた。
私より、少しだけ先にいる人。
その背中に追いつくための、最初の試練の幕が、明日の夜、上がる。




