第14話 記念配信の準備は、祈りに似ている
YouTube Studioのダッシュボードに表示された数字は、九千九百二十人を示していた。
あと八十人。
今日の夜、予定通りに記念配信を開始すれば、配信の枠内で間違いなく大台を突破するだろう。
チャンネル登録者数一万人。
無名の個人勢として産声を上げてから数ヶ月、一つの大きな、けれど眩しすぎるマイルストーンが目の前に迫っていた。
「……よし。タイムテーブルの最終確認」
細縁のメガネを指先で押し上げ、私はモニターに広げたスプレッドシートに視線を走らせる。
二十一時〇〇分〇〇秒、待機画面スタート。
新しくしずく先生から納品された、記念配信専用の待機用アニメーション。
星屑がゆっくりと螺旋を描いて降り注ぎ、オルゴールの旋律が三十二小節を刻んだところで、自動的に画面が切り替わる設定だ。
開始五分で最初の挨拶と、急増した初見リスナーへの丁寧な自己紹介。
十五分、あらかじめ募集しておいたお祝いマシュマロの紹介。
四十五分、サプライズとしての新表情差分(悪戯っぽい困り顔)と、星のチャーム付きショールのお披露目。
六十分、一万人の瞬間をリスナー全員で見届けるカウントダウンと、感謝のピアノバラード。
「BGMの音量はマイナス十八デシベル。マイクの音量はマイナス六デシベルを上限にリミッターをセット……よし」
オーディオミキサーのツマミをミリ単位で点検する。
先日の配信で犯した音声ルーティングのミスを決して繰り返さないよう、起動チェックリストは全二十四項目に増設されていた。
世の中には「配信なんて、気楽にボタンを押して喋ればいい」と言う人もいる。
その肩の抜けた自然体こそが魅力の配信者も、確かにたくさんいるだろう。
けれど――私には、それができない。
私にとって、星祈ミウとしてマイクの前に立つ時間は、気楽な日常の延長ではないのだ。
「……神社の、遷宮の儀式みたいだな」
ふと口からこぼれた言葉に、自分で苦笑する。
朝一番に清らかな水で境内を掃き清め、白木の一本一本に狂いがないかを確かめ、神事のための装束を寸分の乱れもなく整える神主――。
「……って、お伊勢さんの式年遷宮で祝詞あげる神主目線で例えないの! 脳内議事録から即座に抹消!」
パンと頬を叩いておっさん臭い比喩を消去する。
けれど、感覚としてはあながち間違っていないと思う。
私にとって星祈ミウの配信は、祈りそのものだ。
前世で持てなかった憧れ、現世の生身の肉体にある些細な不純物やノイズ。
そのすべてを削ぎ落とし、ただ純粋な「最高に可愛い私」として世界に存在するための、神聖な儀式。
三十代半ばで病に倒れ、誰にも看取られずに冷え切ったワンルームで息を引き取った前世の私。
あの頃の私が渇望してやまなかった、光と、温もりと、誰かに愛される美しい少女という実存。
輪廻転生という奇跡を経てなお、生身の肉体だけでは満たされなかった私の魂が、ようやく見つけ出した唯一無二の祭壇が、このデスクの上なのだ。
だからこそ、準備を怠るわけにはいかない。
机の引き出しから、小さなリップブラシとヒアルロン酸配合のリッププランパーを取り出す。
画面には私の生身の顔なんて一切映らない。配信するのはLive2Dのミウのアバターだけだ。
それでも私は、配信前には必ず鏡の前で髪を丁寧に梳かし、唇を艶やかに潤し、背筋をピンと伸ばす。
雨宮澪という器が乱れていては、そこから紡ぎ出される星祈ミウの声の粒子に、わずかな濁りが生じてしまうからだ。
所作の一つ一つが、アバターという神体へ命を吹き込むための、欠かすことのできない斎戒沐浴だった。
ピロン、とDiscordの通知音が鳴った。
画面の右下に、しずく先生からのメッセージが表示される。
『澪ちゃん、準備の進み具合はどう? ショールのアニメーション、Live2Dモデラーさんと最終調整終わったよ! すっごく可愛く動くから、本番でみんなをびっくりさせようね』
添えられていたのは、完成したショールをまとったミウのテスト動画だった。
小首を傾げると、ふわりとシースルーの布地が揺れ、ほんのコンマ三秒遅れて銀色の星のチャームがチリンと揺らめく。
先日の打ち合わせで先生が語っていた「可憐な重力」が、完璧な形で命を吹き込まれていた。
「…………っ、あぁ」
思わず胸に手を当てて息を呑む。
可愛い。あまりにも、美しすぎる。
この最高の器を預かっているのだ。
私が弱気になってどうする。
見つけてもらったことで吹き込んできた外の世界の冷たい風も、この眩しい光の前には何の意味もなさない。
『先生、本当にありがとうございます……! 最高の配信にして、ミウちゃんの可愛さを世界中に見せつけてきます!』
震える指で返信を送り、私は深く息を吸い込んだ。
時計の針は、二十時四十五分を指している。
本番開始まで、あと十五分。
YouTubeの待機所には、すでに千人を超えるリスナーが集まり、チャット欄が激流のように流れていた。
『待機! 一万人見届けるぞおおお!』
『切り抜きから来ました! 初リアタイ楽しみ!』
『今日のために有給取ったわ』
『ミウちゃん緊張してるかな? 頑張ってー!』
常連の星見守たちの温かいエールと、新しく仲間入りしてくれた初見さんたちの期待の熱気。
静かに、手鏡を置く。
大型ヘッドホンを装着し、マイクの前に姿勢を正す。
肺いっぱいに部屋の空気を満たし、雨宮澪の意識を、愛しい星祈ミウの魂へと溶かし込んでいく。
「――さあ、行こう」
私の祈りを、世界に捧げる時間だ。
マウスに指をかけ、私は配信開始ボタンへとカーソルを合わせた。




