第13話 少しだけ、風向きが変わる
スマートフォンが、ポケットの中で小刻みに震え続けていた。
最初は、高校の休み時間のことだった。
教室の隅の自分の席で、お弁当箱の蓋を開けながら何気なく通知画面を覗き込んだ私は、思わず持っていた箸を取り落としそうになった。
ピロン、ピロン、ピロン。
普段なら数時間に一通程度しか届かないYouTubeとXの通知が、まるで壊れた水道の蛇口のように止まらない。
『星祈ミウ Channel のチャンネル登録者数が 2,000 人を突破しました!』
『星祈ミウ Channel のチャンネル登録者数が 3,000 人を突破しました!』
『星祈ミウ Channel のチャンネル登録者数が 5,000 人を突破しました!』
「……え?」
喉から掠れた声が漏れた。
二千人? 三千人? 五千人……!?
昨日まで、千三百人ほどで穏やかに推移していたはずの数字が、一昼夜で四倍近くに跳ね上がっている。
何が起きたのか全く呑み込めないまま、震える指先でXのアプリを開いた。
通知欄のトップに表示されていたのは、見知らぬアカウントのポストの引用通知だった。
『【神クリップ】この個人勢VTuberの「0.2秒の照れ顔」、人類全員見てほしい。ガチで次元が違う【星祈ミウ】』
有志の切り抜き師による、ショート動画。
それは、前回の配信で私が音声トラブルを起こした直後――「星の電波が迷子になっちゃった」と小首を傾げて恥ずかしそうに微笑んだ、あのリカバリーの瞬間を切り取った動画だった。
再生回数、四十八万回。
リポスト、一万二千件。
「よ、四十八万再生……!?」
弁当の卵焼きを喉に詰まらせそうになり、慌てて水筒のお茶を流し込む。
胸が激しく高鳴り、視界がチカチカと点滅した。
放課後、誰とも目を合わせないように早足で帰宅した私は、自室のドアを施錠し、パソコンの前に滑り込んだ。
デュアルディスプレイの全面に、アナリティクスと動画のコメント欄を展開する。
急激に垂直に近い角度で立ち上がった登録者数のグラフ。
おすすめ機能とショート動画のアルゴリズムが噛み合い、星祈ミウの存在が、これまで届いたこともない広いネットの海原へと一気に押し流されていた。
切り抜き動画のコメント欄をスクロールする。
『え、この子めちゃくちゃ可愛いんだけど誰!?』
『Live2Dの動き滑らかすぎない? 神絵師誰だろ』
『声のトーンが心地よすぎる。即チャンネル登録した』
『あざとい……けど許してしまう悔しい』
『個人勢でこのクオリティはヤバいでしょ』
絶賛の嵐。
純粋な賞賛、一目惚れした人々の熱狂的な言葉。
「届いた……」
手鏡を引き寄せ、自分の顔を見つめた。
頬が熱く上気している。
あの日、「もっと見つけてもらうために」と決意し、サムネイルを一ピクセル単位で磨き、予期せぬトラブルからも必死に立ち上がった。
そのすべての点と点が繋がり、見知らぬ誰かの心を動かしたのだ。
私の磨き上げた「一ミリ単位の可愛さ」が、外の世界に通用した。
その確信が、冷えた身体に熱い血を巡らせるような達成感となって胸を満たしていく。
――けれど。
さらにコメントを読み進めていくうちに、私の胸の奥に、チクリとした冷たい針のような違和感が刺さった。
『ガワ(見た目)が良いのは分かったから、早く前世晒してほしい』
『どうせ中身はそこらへんの素人おばさんだろw』
『声優志望のプロが裏でやってそう』
『男ウケ狙いすぎでちょっと草』
「…………」
マウスを握る指先が、わずかに強張る。
もちろん、悪意のあるコメントは全体の数パーセントに過ぎない。ネットの拡散には付き物の、無責任な野次馬の声だ。
前世の営業時代にも、テレビのグルメ番組で紹介された翌日の下町の定食屋が、急増した一見客の身勝手なクレームでパンクしている光景を見たことがある。
「……って、行列の整理に追われる定食屋の店主目線で例えないの! 脳内議事録から即座に抹消!」
頭を振ってセルフツッコミを入れる。
けれど、胸の奥のざわつきは完全には消えてくれなかった。
これまで私の配信に集まってくれていた星見守のリスナーたちは、星祈ミウという少女を丸ごと受け入れ、大切に育てるように見守ってくれていた。
でも――こうして外の世界へ開かれた途端、そこに流れ込んできたのは、温かい居場所の空気だけではなかった。
ただ消費するためだけに眺める視線。
ガワの裏側にある「生身の人間」を面白半分に暴こうとする、無粋な詮索。
星祈ミウは、雨宮澪の生身のノイズを削ぎ落とした「純度百パーセントの祈り」だ。
中に誰が入っているかなんて、星祈ミウの可愛さの前には一片の価値もない不純物なのに。
「……ううん。弱気になっちゃダメだ」
私は両手で頬を挟み、パンと気合いを入れた。
見つけてもらうということは、こういうことだ。
温かい温室から外へ一歩踏み出せば、心地よい追い風だけでなく、冷たい風も吹き込んでくる。
そんなことは最初から分かっていたはずだ。
それに、数字の急増は紛れもないチャンスだ。
チャンネル登録者数は、今もリアルタイムで増え続け、すでに六千人に届こうとしている。
この勢いなら、遠い夢だと思っていた「登録者一万人」の節目も、そう遠くない未来に見えてくるかもしれない。
「大丈夫。私には、しずくママがくれた最高の器がある」
モニターの待機画面で微笑むミウを見る。
どんな雑音が混ざろうと、私のやるべきことは変わらない。
一ミリも妥協せず、世界で一番可愛い笑顔を画面の向こうに届け続けるだけだ。
期待と、高揚と、ほんの少しの張り詰めた緊張感。
風向きが変わり始めた世界の中で、私は次なる大きなマイルストーンへ向けて、静かに呼吸を整えた。




