第11話 小さな失敗は、可愛くない
配信開始のカウントダウンがゼロを示した瞬間、私の背筋に冷たい氷柱が突き刺さった。
――音が、鳴っていない。
オープニング画面のBGMとして設定していた、オルゴール調の静謐なワルツ。
配信の開始とともに優しくリスナーを迎え入れ、星祈ミウの透明な世界観へと誘うはずの導入曲が、無音のまま停止していた。
「……っ」
手元のオーディオミキサーを見る。
フェーダーは上がっている。だが、配信ソフト側の音声ルーティングが、直前の機材再起動によって別の仮想チャンネルへと誤認識されていたのだ。
秒針が進む。五秒、六秒。
画面はすでに本番の待機画面から、Live2Dのミウが佇む配信画面へと切り替わっている。
チャット欄には、待機していたリスナーたちのコメントが流れ始めていた。
『あれ? 無音?』
『ミウちゃんこんミウ〜!』
『音聴こえないの私だけ?』
『草、機材トラブルかな?』
心臓が早鐘を打つ。
喉の奥がカラカラに渇き、掌にじっとりと脂汗が滲む。
前世の営業時代、重要クライアントへのプレゼン直前にプロジェクターが映らなくなり、冷や汗でワイシャツの背中をビショビショに濡らした記憶がフラッシュバックする。
「……って、会議室でHDMIケーブル握りしめて青ざめる中年社員の記憶なんて出してる場合じゃない! 脳内議事録から即座に抹消!」
私はマウスを電光石火のスピードで操作し、音声入力を正しいチャンネルへと再アサインした。
パッとBGMが鳴り響く。
遅延時間は、およそ十二秒。
客観的に見れば、個人勢の生配信における「些細な機材トラブル」に過ぎない。
だが、私にとってこの十二秒は、緻密に組み上げた星祈ミウの芸術を根底から揺るがす致命的な瑕疵だった。
完璧なタイミングでフェードインする音楽。
その余韻に溶け込むように吐き出される、最初の一声。
そのすべてが狂ったのだ。
「――ふふ、おまたせ。みんな、こんばんは」
マイクに向かって、私は努めて甘く、鈴を転がすような声を出した。
Live2Dのモデルに、少しだけ首を傾げた困り眉の笑顔を作らせる。
「ちょっとだけね、星の電波が迷子になっちゃってたみたい。待たせちゃってごめんね? ……もう、ミウのこと心配してくれた?」
完璧なトーン。完璧なあざとさ。
コメント欄が一気に沸き立つ。
『かわえええええええ』
『許した、むしろご褒美』
『星の電波迷子たすかる』
『今日も顔が良い! こんミウ〜!』
リスナーは喜んでいる。誰も怒っていないし、大事故にも見えていない。
配信は無事に軌道に乗った。
――けれど。
私の胸の内側は、ざらついた砂を噛まされたように苦しかった。
(……喉が、硬い)
笑いながら話している間も、頭の中の冷徹な監査官が警告アラートを鳴らし続けていた。
動揺のせいで呼吸が浅くなり、声帯の支えが上ずっている。
本来なら百七十ヘルツ周辺で豊かに響くはずのチェストボイスの倍音が抜け、わずかに高音が甲高くなっているのだ。
言葉の選び方も、普段よりコンマ数秒遅い。
頭の片隅で「早く取り戻さなきゃ」「完璧に見せなきゃ」という焦りが渦巻き、リスナーのコメントを拾う視線が泳ぎそうになる。
一時間半の雑談配信中、私は表面上、一度も笑顔を崩さなかった。
リスナーからは「今日も最高に癒やされた」「楽しかったよ」とたくさんの温かい言葉をもらった。
だが、配信終了ボタンを押した瞬間――。
「…………はぁっ」
私は机に両肘をつき、顔を覆って深くうずくまった。
ドッと押し寄せる疲労感。
手鏡を見る。そこには、無理な緊張で強張った雨宮澪の青白い顔があった。
「……全然、可愛くなかった」
絞り出すような声が、自室の空気に落ちる。
ヘッドホンを装着し、今終わったばかりのアーカイブの冒頭を再生する。
画面の中の星祈ミウは、可愛く微笑んでいた。
トラブルを誤魔化すセリフも、表向きは愛らしくまとまっている。
けれど――私には分かってしまう。
その瞳の奥にある、焦りと計算の綻びが。
トラブルに動揺し、心の中でバタバタと取り繕っていた醜い内面が、声のわずかな震えや息継ぎの粗さに、しっかりと刻み込まれていたのだ。
「些細なトラブル一つで……ここまで動揺するなんて」
ペンを握り、反省ノートを開く。
インクを叩きつけるように、手帳に文字を書き殴った。
【本日の重大反省事項】
・冒頭音声ルーティング確認漏れ(事前チェックリストの不備)
・トラブル発生時の心拍数急上昇に伴う、発声フォームの崩壊
・動揺を表に出さないことだけに必死になり、配信全体の『楽しさ』の純度が低下
「私、何を勘違いしてたんだろう」
ペンを止め、天井を見上げる。
私はこれまで、星祈ミウを『完璧な彫刻』のように作ってきた。
一ミリも狂いのない台本、計算された所作、欠点のないビジュアル。
すべてが予定通りに進んでいる時だけ、完璧な美少女でいられるシステム。
でも――配信は、生き物だ。
機材がトラブることもあれば、コメントが荒れることもある。自分が喉を痛める日だって来るかもしれない。
予定調和が崩れた瞬間、途端に内面がパニックになり、取り繕うだけの張り子の虎になってしまうのなら――それは、本当のプロデュースとは呼べない。
「完璧を守るだけじゃ……足りないんだ」
乾いた唇を噛みしめる。
トラブルが起きても、予定が狂っても。
その揺らぎさえもふわりと受け止めて、星祈ミウとしての愛らしさに変えてしまえるような『立て直しの力』。
崩れた後に、どう美しく息を整えて微笑み直せるか。
それこそが、生身の人間がVTuberという器を生きる上で、最も必要な技術なのだ。
「……負けない」
私は手鏡の自分をじっと睨み据え、それから小さく息を吸い込んで、鏡の中の瞳を柔らかく細めた。
トラブルが起きた時のリカバリー用のアドリブ台詞。
呼吸を瞬時に整えるための腹式呼吸のルーティン。
ノートの余白に、びっしりと新しい対策を書き込んでいく。
小さな失敗は、確かに可愛くなかった。
でも――この痛みを糧にして立ち上がった私は、昨日よりもずっと強い星祈ミウになれるはずだ。
静かな夜の部屋に、ペン先が紙を走る力強い音だけが響いていた。




