第9話 幕間・利息の計算(犬視点)
雨が窓を叩いている。帝都サンクレールの秋の長雨は、夜になると音だけになる。
門番小屋の隣の部屋は狭い。寝台と机と椅子、窓がひとつ。かつてのセドリック・ヴェルダンテなら物置と呼んだ広さだが、ここへ来て知った。人ひとりが眠り、机に向かうのに、これで足りる。足りると知らずに生きてきた歳月のほうが、よほど貧しかった。
机の上に、黒革の予定帳がある。
王太子であった十年間、側仕えが毎朝開いて読み上げた帳面だ。臣籍に落ちたとき、彼の手元には何ひとつ残らなかった。この帳面は、今日、彼女が書棚の奥から出して、膝の前へ放ってよこしたものだ。彼は十年、この帳面を自分の手で開いたことがなかった。読み上げられる予定だけを聞き、頁そのものを見なかった。
今夜、初めて最初の頁を開く。
開くのに、ずいぶん時間がかかった。表紙に指をかけてから、雨音を三度数え直した。中に何が書かれているか、もう知っているからだ。今日の昼、頁の端からのぞいた細い字を、彼は見てしまった。見てしまった以上、全部読まずに眠ることは、もはや盗みに等しい。
余白に、細い字があった。
——殿下は卵の白身を残される。厨房に伝えること。
彼の字ではない。側仕えの字でもない。インクの褪せ方からして十年前。八つの子供が、精いっぱい大人の真似をして整えた筆跡だった。宛名はない。誰かへの伝言ではなく、彼女が彼女自身に宛てた注意書きだ。
一頁ずつめくる。
——冬の遠乗りの前は、白湯を。喉を痛めやすい方だから。
——式典の長靴は左の踵が当たるとお顔に出る。靴職人に先回りを。
頁が進むにつれ、字は大人びていく。十五の頁。彼が夜会で「気の利く給仕がいた」と褒めた葡萄酒の温度は、三日前の余白に手配の指示があった。十七の頁。彼が「天の配剤だ」と笑った雨天の予備馬車は、彼女が一月前から押さえていた。
彼が自分の人徳と信じて受け取ってきた優しさは、一行残らず、余白に先回りして書かれていた。側仕えたちが「殿下はお人柄がよろしいから」と言うたび、彼は否定しなかった。否定する理由がなかった。理由は十年間、この余白に積まれていたのに、彼は一度も頁を自分で開かなかった。それが罪の正確な形だ。怠慢でも無知でもない。読もうと思えばいつでも読めた帳面を、読む必要がないと判断した、その判断こそが。
セドリックは頁をめくる手を止めない。止める資格がない。これは十年ぶんの帳簿であり、彼は今夜、初めて監査を受ける債務者だった。
婚約者を守っているつもりでいた。立場の弱い公爵令嬢に、王太子という傘を貸してやっているのだと。逆だ。お守りをされていたのは彼のほうだ。八つの少女が始めた手当ては、十年間、一日も途切れていない。
最後の頁を閉じる。革の表紙に手を置いたまま、彼は長く動かなかった。
許しを乞うつもりはない。乞えば、彼女はまた何かを差し出してしまう。あの人はそういう人だ。乞いに来たのではない。返しに来たのだ。彼女が費やした十年を、利息をつけて。元金は十年。利息は——一生でいい。
彼は引き出しから帳面を出した。市場の隅で銅貨二枚で買った、藁の混じった紙の安い帳面だ。ペンも安物で、先が割れかけている。
最初の一行を書く。雨の夜の部屋は冷え、手は悴み、字は歪んだ。八つの彼女の字よりも、よほど拙い。構わない。これは誰かに清書させる文章ではない。生まれて初めて、彼が自分の手で、誰の目も借りずに書く帳簿だった。歪んだ字のまま残ることに、むしろ意味がある。整えた字で書けば、それはまた誰かの仕事を装った嘘になる。
課題の文言を書き終えたあと、彼はふと手を止め、紙の隅——課題とは何の関係もない場所に、小さく書き足した。
一行目。
——九月十二日。犬の躾は、得意ではありませんの。
二行目。
——九月十三日。一生お待ちになることね。
二行目の途中、「一生」の二文字で、ペンが一度止まった。割れかけたペン先がインクを滲ませ、その二文字だけ、他より太くなった。彼はそれを書き損じとせず、そのまま残した。
たった二行。だが帳面の最後の頁は、もう空白ではない。これから先、彼女が彼に投げる言葉を、日付とともにここへ蓄えていく。利息の支払いには、台帳が要る。
窓の外で雨音が細くなる。
償いには利息がつく。十年ぶんの。そして利息の支払期限は、一生だ。
彼は安いペンを置き、二冊の帳面を並べて、灯りを消した。




