第8話 血統書のない犬
朝の書斎は、雨音の分だけ静かに聞こえる。机に肘をつくと、自分の指先が妙に温まっていることに気づいた。
理由を帳簿につけるなら、費目は「暖炉」。それ以外の費目は認めない。
私は灰青の目を細め、扉が開くのを待った。
帝都サンクレールの長雨は、今朝も窓を一定の調子で叩いている。書棚の上では陛下が前脚を畳み、灰色の縞を香炉のように丸めて据わっていた。琥珀の目だけが扉に向いている。あの位置は偶然ではない。査定人は二人——そう数えておく。
家令が元王子を通した。
「セドリック・ヴェルダンテ様をお連れいたしました。なお、昨夜、門番小屋脇の蝋燭は三本、通常の倍の速さで燃え尽きております」
「眠れなかったらしいわね。蝋燭代は」
「左様でございますね。査定費に計上済みでございます」
よろしい。うちの家令は費目の立て方を心得ている。四十年は伊達ではない。
元王子は扉の内側で姿勢を正した。痩せた肩に、昨日と同じ上着。
「お呼びと伺いました」
「ええ。先に申し上げておきますけれど、わたくし、あなたを雇うとはまだ一言も言っておりませんわ」
血統書も確かめず、芸も見ずに犬を飼う者はいない。まして、この犬は一度私の手を噛んだ前科つきだ。
私は立ち上がり、書棚の奥へ手を入れた。黒革に金具。十年ぶんの文字を呑んだまま、一年半、ここで埃の番をしていた品。
彼の膝の前へ、放る。
絨毯の上で、それは鈍い音を立てた。彼は拾い上げ、表紙を見て、止まった。指が金具の上で迷っている。
「あなたの予定帳よ。わたくしが出るときに、持って出ましたの。労働の記録は、書いた者の手元に置くものでしょう」
「……保管して、いただいていたのですか」
「処分費より保管費のほうが安かったの。それだけよ」
嘘ではない。少なくとも、帳簿の上では。書棚の奥行き三寸ぶんの地代は、捨てる手間賃より安い。そういう計算を、私はちゃんと当時した。——した上で、用もないのに、奥から出しては帳尻の合うのを確かめて、また戻した。その回数だけは、帳簿に付けていない。彼に教える項目でもない。
「課題は一つ。その余白の書き込みをすべて読んで、私が——わたくしが、何を守っていたのかをすべて書き出しなさい」
彼は頁を開いた。余白には、私の字が十年ぶん詰まっている。
「試しに一行、読んでごらんなさい。どこでもいいわ」
「『晩餐は東側二席を空けること』……」
読み上げた本人が、いちばん分かっていない顔をした。当然だ。これの意味が分かる男なら、あの夜、私を切り捨てたりしない。
「分かりまして?」
「……いいえ」
「正直なのは結構。では、それも含めて七日後に」
東側二席。あの一行の裏に、いくつの家名と、いくつの席次争いと、いくらの賠償未満の握り潰しが畳まれているか。余白とは、表に立てられない費目を書きつける場所だ。彼の予定帳の余白は、つまり私の裏帳簿だった。
「期限は七日。途中でわたくしから進み具合を訊くことはしないし、あなたから報告することも禁止。それから——」
私は指を一本立てた。
「書き出しのどこかに、一度でも『細やかな気遣い』と書いたら、その時点で不合格ですわ」
「……理由を伺っても」
「いいえ」
理由を教える査定に、何の値打ちがある。罠というものは、踏まれて初めて費用対効果が出る。彼が踏むか、避けるか、避けた上でなぜ避けたかまで書いてくるか——値踏みの精度は、そこで三段階変わる。
彼は問いを重ねなかった。引き際だけは昔から悪くない。王宮で唯一、彼に付けてやれる加点だった。
彼は予定帳を両手で持ち直し、深く頭を下げた。
「七日後に、お持ちします」
「結構ですわ。退出なさい」
扉へ向かう背中に、棚の上から低い音が降った。陛下が耳を伏せ、喉の奥で唸っている。爪はまだ出ていない。威嚇は第一段階——「貴様の査定はこれからだ」と読んでおく。陛下の人件費は鰯一尾。番犬ならぬ番猫としては破格の安さだ。
元王子は扉の手前で足を止め、棚の上で唸る灰色の塊に向き直ると、私にしたのと同じ深さで、もう一度頭を下げた。
「ご挨拶申し上げます。以後、お見知りおきを」
陛下は唸りをひとつ強め、ふいと顔を背けた。謁見は却下、ということらしい。猫に頭を下げる元王太子というものを、私は生まれて初めて見た。律儀なことだ。礼は無料だが、私の査定では加点もしない。無料のものを差し出す男は、無料のものしか持っていないか、値段のつくものを出し惜しんでいるかのどちらかだ。七日後に、どちらか分かる。
「お嬢様」
「何かしら」
「ただいまの威嚇、当家にお越しの方々の中では最も軽度でございました。なお、先月の税務官は流血しております」
「左様でございますね、とでも返せばいいの」
「左様でございますね」
家令はそう言って下がった。四十年、こうである。
机に戻り、私は帳簿の新しい頁を開く。費目「査定」。期間、七日。予算、蝋燭と鰯と、私の暇つぶしを少々。
儲けが出るかどうか。——出るかどうか分からないから、試すのだ。市場とはそういうものだと、お父様も言っていた。
ペンを置き、私は誰もいなくなった扉へ向かって呟いた。
「よろしい。——試して差し上げます」
【猫陛下】
——名乗っておく。朕である。名を陛下。女官が付けた位じゃ。その女官、名をロゼリアという。
本日、女官は犬を一匹査定しておったが——断っておく。査定人は、二人じゃ。朕にも、朕の目がある。
この欄では時おり、朕が世を眺めてやる。ありがたく思え。




