第7話 帳簿の夜
夜の自室は、私がいちばん私でいられる場所だ。
指先が冷えている。インク壺の蓋を開けるときはいつもこうなる——大きな商談の前、胸の奥で算盤が鳴り出す、あの冷たさ。
つまり今夜の私は、いい商売を前にしているということになる。
机の上に、本物の帳簿を開く。社交用の薄っぺらい家計簿ではない。ヴァルモンテ商会の血が三代かけて磨き上げた、本物のほうだ。新しい頁の頭に、品目を書き入れる。
——セドリック(元王子・中古品・返品不可)。
まず費目から。
食費。成人男性一名。剣を振るぶんだけよく食べるだろうが、王宮の晩餐に比べれば犬の餌など誤差の範囲だ。
寝床。門番小屋の隣を片付けて、毛布を二枚。ただし支給ではなく、減点が溜まり次第、一枚ずつ没収できるよう、貸与扱いにしておく。
被服費。お仕着せ一式。仕立てのいい男だから安物でも見栄えがする。これは経費というより、むしろ節約に分類したい。
醜聞対策費。「ヴァルモンテの令嬢、元王子を飼う」——社交界は囀るだろうが、笑われるのは首輪を着けた側であって、紐を持つ側ではない。よって計上は飴玉程度で済む。
プライド維持費。計上不要。先方が玄関先ですでに手放しているため、維持すべきものが残っていない。
教育費。鞭は要らない。減点表と赤インクで足りる。つまり紙代のみ。
番犬の吠え声。無料。むしろあの男の場合、黙らせるほうに費用がかかる見込みなので、口輪代を予備費に立てておく。
我ながら良心的な見積もりだ。慈善事業と間違われそうで、少し書き直したくなる。
次に収益。
元王族の目と耳。王宮の裏の地図、十年ぶん。どの大臣がどの夜会で何を握り潰したか——あれは金貨では買えない。市場に出回らない品ほど高くつくのが商いの常で、これだけで食費の千年ぶんは元が取れる。
剣。衛兵三人ぶんの働きが、一人前の餌で動く。護衛の入札市があったなら、他家に自慢して回りたいほどの落札価格だ。
使い道。儀礼院への口利き、ヴェルダンテ家との折衝の盾。卓の向こうで「元殿下がうちにおりますの」と扇を傾けるだけで、交渉の空気が変わる。
ペンを止め、合計線を引く。検算。もう一度、検算。
合う。面白いくらい、合ってしまう。これほど黒字の出る買い物は、東方航路の香辛料以来だ。
そして合った上で、私は認める。帳簿は正直に付けるものだからだ。
私を捨てた男が、私の足元で働く。私の採点に額づき、赤インクの一筆に青ざめる。それは——悪くない。
復讐ではない。復讐は採算が合わない。あれは支払いだけが嵩む費目で、利息すら付かない。これは違う。商品の値打ちを見抜けずに返品した客に、その商品の正しい使い方を、目の前で延々と見せつけてやりたいだけ。ほら、こう磨けば光りましたのに。ほら、こう躾ければ役に立ちましたのに。商人の、ごく健全な欲だ。
窓辺のクッションで、陛下が薄目を開けた。灰色の縞に、琥珀の目。痩せた野良だった頃と同じ顔つきのまま、上等な天鵞絨の上に君臨している。
「ねえ陛下。この取引、お買い得かしら」
帳簿を掲げて見せる。陛下は私の十年ぶんの計算を一瞥もせずに、大きな欠伸をひとつ。
「食費はかかるの。でも目と耳が十年ぶん付いてくるのよ。剣も。それから——とびきり姿勢のいい、敷物が」
前足が一本、天鵞絨の上で伸びた。それから陛下はくるりと背を向け、丸くなる。
「……聞いてないでしょ。ねえ、ちゃんと聞いてた?」
尻尾が一度だけ、クッションを打った。好きにしろ、との仰せだ。御意。この家でいちばん決裁の早い御方は、いつだって陛下である。野良から窓辺まで成り上がった先達として、新入りの査定に口を挟む気もないらしい。
ついでに、明日の通告の稽古をしておく。鏡に向かい、扇を開いて。
「査定を始めます、殿下。減点は赤で記します。加点があるかどうかは——あなた次第ですわ」
語尾が上ずった。やり直し。
「採点は毎晩ですわ。減点三つで、お庭で寝ていただきます」
「逃げるのはご自由に。ただし減点ですわ」
よろしい。冷たく、甘く、出来た。鏡の中の私は、明日も完璧な飼い主の顔をしている。
ペンを置く間際、ふと、玄関先の伏せた首筋が浮かんだ。雨に濡れた犬のくせに、襟の折り目だけは王族のままだった、あの首筋が。
帳簿外。
胸のどこかが、勘定の合わない端数を弾き出しかけた気もするけれど、それも。
帳簿外。
数字にならないものは、帳簿には載せない。だからヴァルモンテの帳簿は、今夜も完璧に正確だ。
——書斎の棚が、小さく軋んだ気がした。古い家具は、夜になると鳴くものだ。




