第6話 目録のない買い物はいたしません
雨音で目が覚めるのは、二日続くと業腹だ。
寝覚めの悪さには原価がある。私の場合、朝の紅茶が一杯では足りなくなる。余分の茶葉、余分の湯、余分の時間。締めて銀貨半枚といったところで、請求先は考えるまでもなかった。
門の外で夜を明かした、あの男だ。
帝都の社交界には、雨の夜に窓辺で物思いに沈む令嬢というものが一定数いるらしい。私は沈まない。沈んでいる時間にも蝋燭は減る。
「ご報告のみ申し上げます」
朝食の席で、家令が一礼した。四十年この家に仕える老人は、感想を言わないことで給金を得ているような男だ。
「門前の方は、夜のあいだ一度もお動きになりませんでした。門灯は朝まで点いておりました。傘は、依然としてお持ちでないご様子」
「事実だけね。結構ですわ」
「事実のみでございます。……付け加えるならば、雨脚は昼まで弱まらぬ由にございます」
それは事実か、進言か。問い詰めても無駄だろう。この老人の顔は、四十年前から答えというものをしたことがない。
風邪で死なれては寝覚めが悪い。いや、正確に勘定しよう。門前で行き倒れられた場合、屋敷の評判の毀損、医者代、衛兵への説明、最悪の場合は元王族の葬儀に関わる面倒一式。費目を並べれば、応接間の床を半日貸すほうが圧倒的に安い。これは慈悲ではない。経費の圧縮だ。
「お入れなさい。応接間に。絨毯の上は許可しません」
「畏まりました。……毛布は」
「出さなくてよろしい。犬志願者に毛布は早いでしょう」
家令は何も言わず、しかし毛布を一枚だけ抱えて出ていった。あの分は老人の独断として、私の帳簿には載せない。
通された男は、暖炉から最も遠い床に、自分から膝をついた。示し合わせたわけでもないのに、許される位置を寸分違わず測ってくる。夜色の髪から水が滴り、金茶の目だけが乾いた色をしていた。
外套は二晩の雨で死んでいた。仕立ては王宮のもの。けれどあれの減価償却はとうに終わっている。今やあれは、布の形をした水だ。
「犬にしてください」
男は床に手をつき、頭を下げた。
「復縁は望みません。許されるとも、思っておりません。ただ——お役に立つことだけを、お許しいただきたい」
弁明がない。情に訴える前置きもない。値引き交渉すらない。元王太子という商品にしては、売り口上が潔白にすぎる。
「犬に何ができますの」
私は椅子から動かずに言った。立って近寄れば、それだけで一段値を上げてやることになる。
「あなたに残っているものを、言いなさい。目録のない買い物はいたしませんわ」
男は顔を上げ、指を折るでもなく、淀みなく数えた。
「剣を一振り。王宮の裏側を十年見た目。それから——いくらでも恥をかける身分を」
恥を、目録に載せた。
私は灰青の目を細めて、その品書きを検めた。剣と目は分かる。だが三つ目を商品として数えられる人間は多くない。誇りを売り物に数えられる男は、誇りの値段を知っている男だ。値札を読めない者に、その芸当はできない。没落の市場価格は暴落が相場だけれど、この男は底値で自分を差し出すことを、自分で選んでいる。買い手が私一人しかいないと、知り尽くした顔で。
悪くない仕入れだ。少なくとも、帳尻は合う。
「番犬として置くなら、確かめておくことがあります」
「何なりと」
「あなたは家の中に入らない。これは恩情の問題ではなく、線引きの問題です。線の引けない犬は、躾の費用が嵩みますから」
「家には入りません。庭を横切るのも、お呼びがあったときだけに致します」
私が言う前に、男のほうから境界を切ってきた。それも、私が引こうとした線より、半歩内側を。
「雨の日は」
「軒下をお借りできれば。ご不要なら、それも結構です」
結構です、と言うときの声に、湿り気が一切なかった。二晩雨に打たれた男の声とは思えない。この男、惨めさを商品に混ぜてこない。同情を引けば値が上がる場面で、あえて引かない。つまり、同情で買われた犬がどんな末路を辿るか、知っているのだ。
膝の上に揃えられた手の甲に、古い傷がいくつも見えた。剣の鍛錬にしては不揃いな、庇うときにつく形の傷だ。いつ、誰を——
帳簿外。
私の帳簿に、その費目は存在しない。今後も計上しない。
「番犬の分際を申し付けます」
私は告げた。
「家の中には入らないこと。庭を横切るのは、呼ばれたときだけ。餌は出します。寝床は門番小屋の隣。名は——殿下、のままで結構。皮肉が利いていてよろしいですわ」
「仰せのままに」
「ひとつだけ、覚えておきなさい」
私は立ち上がり、床の男を見下ろした。雨はまだ窓を叩いている。
「あなたに残された場所は、私の後ろだけです」
男は深く、深く頭を垂れた。濡れた髪から雫がひとつ落ちて、絨毯に小さな染みを作る。
染み抜き代、銀貨二枚。
最初の借金として、つけておくことにした。




