第5話 幕間・白紙の余白(犬視点)
卓上の予定帳は、白い。
日付と会議名だけが並び、余白には何もない。セドリック・ヴェルダンテは執務机に肘をつき、その白さを長いこと見ていた。
以前は違った。余白には細い字が並んでいた。「この話題は避けること」「西回廊は工事中、東から」「祝辞の前に弔意を」。誰の字か、考えたことがなかった。予定帳とはそういうものだと思っていた。雨が降れば屋根が雨音を立てる、その程度の自然さで、余白には注意書きがあるものだと。
ロゼリア・ヴァルモンテが王宮を去って、最初の晩餐会で大使が席を立った。隣国と係争中の家門の当主を、大使の正面に座らせていた。誰がその席次を組んだのかと侍従長に問い、侍従長が答えに窮した顔で「これまでは、ヴァルモンテ様が」と言ったとき、私はまだ理解していなかった——セドリックは後にそう振り返ることになる。理解は、一度では来なかった。来るたびに、形を変えて深くなった。
南方伯との会見では、関税の話を自分から振った。場を温めるつもりだった。南方伯は微笑んだまま二度と本題に戻らず、交渉は止まった。あの予定帳の余白に「南方伯の前で関税の語を出さぬこと」と書かれていたのを、セドリックは後から思い出した。読んでいなかったのではない。読んだ上で、誰が書いたかを考えなかったのだ。
夫人たちが夜会の招待を辞退し始めたのは、その頃だ。一人、また一人と、丁重な断り状だけが届いた。理由は誰も言わなかった。理由を言われる必要があるうちは、まだ見放されていないのだと、これも後から知った。本当に終わるときは、ただ静かに席が空く。王宮の広間は、冬を待たずに広くなった。
リュシーが暇乞いに来たのは、秋の終わりだった。男爵令嬢は深く頭を下げ、顔を上げてから、言い訳をしない声で言った。
「ロゼリア様がいらした頃は、怖くなかったのです。夜会に出ても、気づいたら正しい席に座れていました。話してはいけない相手とは、なぜか話す機会が来ませんでした。あれは全部、あの方が」
そこで言葉を切り、彼女は小さく笑った。
「私には王妃は務まりません。それを、ずっと前から知っていました。知っていて、黙っていました。申し訳ございません」
謝るべきは君ではない、と言いかけて、セドリックはやめた。その言葉すら、自分を軽くするために使われると分かったからだ。彼はただ頷き、彼女の旅装が調うよう侍従に命じた。それが、彼にできた唯一のまともな仕事だった。
その夜、鏡の前で上着を脱ぎながら、襟が曲がっていることに気づいた。手で直そうとして、うまくいかなかった。十年、自分の襟は曲がったことがなかった。曲がらない襟など存在しない。曲がるたびに直す手が、あっただけだ。鏡の中の男は夜色の髪に金茶の目をした、襟の曲がった男だった。セドリックは初めてその男を見た、と思った。
臣籍降下の通告は、冬に来た。王印の押された一枚の紙だった。読み上げる文官の声は事務的で、それが正しい扱いだとセドリックは思った。彼は異議を申し立てなかった。申し立てる根拠を、自分はこの一年で残らず使い潰していた。王太子の地位、宮の居室、剣も馬も返上した。惜しいと感じる資格ごと、返した。
退去の荷を整理していて、書棚の奥から古い予定帳が出てきた。五年前のものだ。開くと、余白に細い字が走っていた。「この日は前夜が遅いので、午前の謁見は短く」「殿下は鴨が苦手。献立確認のこと」。
——苦手だと、言った覚えはない。
言わなくても、書かれていた。十年ぶん。彼が知らないところで、彼の一日は毎朝組み立てられ、毎晩畳まれていた。給金の出ない仕事として。礼を言われない仕事として。
最後の夜、セドリックは机に向かい、その細い字を一行だけ、自分の手で紙に書き写した。「祝辞の前に弔意を」。一番、自分に欠けていたものだったからだ。書き写した紙を畳み、懐に入れた。予定帳そのものは置いていく。あれは王宮の備品であり、彼女の労働の記録であり、彼のものではない。だが一行ぶんなら——盗みだと言われたら、頷くつもりだった。
帝都で彼女が暮らしていると、人づてに聞いていた。会って何を言うのかは、まだ決めていない。弁明はしない。それだけを決めていた。
帝都はこれから雨の季節だと聞いた。ちょうどいい。曲がった襟で濡れて立つには、ちょうどいい。
ここまで一気にお読みいただき、ありがとうございます。
続きは毎日21時台に、1話ずつ更新します。全45話、完結まで必ず走り切ります。
気まぐれな猫(陛下)と、従順な犬を、どうぞ最後までよろしくお願いいたします。




