第4話 席次は外交、求婚は焚き付け
国を出て、半年あまりが過ぎた。
サンクレール帝国外交儀礼院。ここは亡命の公爵令嬢を、出自ではなく仕事の出来で値踏みする国だ。寄越されたのは上級儀典官の席ひとつ。給金は妃教育十年分の働きには遠く及ばないけれど、この国の誰も私を「息が詰まる」とは言わない。それだけで、釣りが来る。
そして着任から半年、いちばん厄介な卓が回ってきた。
三日分の睨み合いが、今朝はじめて静かに思えた。
胸の奥で何かがほどける。これは勘定が合うときの音に近い。
だから私は、四日目の会談室に誰よりも早く入った。
北方連邦と南の公国。関税協定の交渉は、三日間まるまる動かなかった。条文の問題ではない。両国の主張は二日目の夜にはほぼ重なっていた。重ならないのは空気のほうだ。空気が悪いと、人は同じ言葉を二度、悪いほうに聞き直す。譲歩は敗北に聞こえ、沈黙は侮辱に見える。三日目の散会のとき、連邦の首席代表は椅子を引く音だけで退室の挨拶を済ませた。あれは言葉より雄弁な赤字だった。
私は席次表を白紙から組み替えた。
連邦の首席代表は、光の加減で声が和らぐ人だ。逆光の席では誰より尖り、柔らかな採光の下では誰より理が通る。窓側へ動かした。
公国の次席と連邦の通商官は、二十年前に同じ大学の寮で暮らした旧友だと調べがついている。三日間、二人は卓の対角に置かれ、互いの顔も見えなかった。向かい合わせに直した。旧友の顔は、敵国の顔より先に目に入るべきだ。
卓上の茶は、連邦の濃い黒茶でも公国の甘い香草茶でもなく、中立の白茶に変えた。どちらの国の流儀でもない一杯は、どちらの誇りも値引かない。
椅子の間隔は指三本ぶん広く。書記の席は一段下げて、視線の圧を卓から逃がす。
言葉の外側で、人は動く。動かすのが私の職務だ。
四日目の朝、入室した両国の使節は、まず席札を二度見た。連邦の首席代表は窓側の光の中で咳払いをひとつし、三日ぶりに「おはようございます」から話を始めた。公国の次席は向かいの顔に気づいて、書類を取り落としかけた。再会の握手は卓越しに交わされ、午前のうちに残る二条項が片づいた。
四日目の午後、協定は署名された。ペン先が紙を滑る音を、私は末席で聞いていた。拍手は要らない。あの音だけで、四日分の働きは満額支払われている。三日分の停滞という負債を、白茶一杯と席札数枚で清算した。儀典官として、これほど利幅のいい取引はそうない。
「あなたの席順は、もはや外交です」
オーレリアン大公はそう言って、もう次の書類に視線を戻していた。賛辞はそれきり。この人の評価はいつも納品書のように簡潔で、品目と数量しか書いていない。値引きもなければ水増しもない。だから信用できる。
「次は東方三都市の通商使節です。資料は今夜中に」
「承知いたしました」
仕事で返ってくる評価ほど、利息のつく通貨はない。
ロゼリア・ヴァルモンテ。サンクレール帝国外交儀礼院、上級儀典官。それが現在の私の品目だ。
官舎に戻ると、文机に求婚の打診が三通。今月の入荷分だ。月三件——市場としては安定供給の部類に入る。
一通目、伯爵家次男。「あなたが家にいてくだされば、我が家の社交は安泰です」。査定額、薪一束。上質紙ほどよく燃える。
二通目、子爵本人。「働く女性に理解がある」と三行ごとに繰り返す。理解の安売りは在庫過多の証拠。査定、薪半束。
三通目は職務照会の体裁を取った実質の釣書だった。これは偽装関税。査定以前の問題として差し戻す。
一通目と二通目は暖炉の焚き付けにした。私の価値を一行も値踏みできなかった紙には、火力という最後の使い道がある。あの種の文面の、唯一にして最大の市場価値だ。
家令が納品書を手に現れた。
「お嬢様。薪の発注を半分に減らしてよろしいでしょうか。近頃、よく燃える紙の入荷が安定しておりますので」
「なりません。わたくしの焚き付けは、来月も入荷するとは限りませんもの」
噂は風に乗って届く。ヴェルダンテ王国——私を手放した国の話だ。
宮中晩餐会の席次を誤り、隣国の大使が中座した。殿下の失言ひとつで、通商交渉は半年止まったまま。社交界では夫人たちが順に王家の夜会から足を遠のけ、招待状の返礼が三割を切ったという。そして、リュシー嬢との婚約は、正式な発表のないまま立ち消えた。発表がない、というのが、あの娘らしい。捨てられたのではなく、自分から静かに降りたのだろう。——あの春、目が合ったとき、もう知っている目をしていた。自分の器を、あの宮廷で誰より早く検算できた娘だ。それだけは、認めてやってもいい。
帳簿で言うなら、回収不能債権の山だ。私が毎朝つけていた帳尻を、誰も引き継がなかった。それだけの話で、それ以上の話ではない。
上等なクッションの上の「陛下」に報告する。
「ヴェルダンテが傾いているそうですわ、陛下」
陛下は片耳だけ動かし、目は開けなかった。前脚を組み直す手間すら払われない。妥当な裁可だ。関知せず——一国の興亡より昼寝の続きのほうが高くつく、というご判断らしい。私もそれに倣うことにする。陛下の相場観は、たいてい私より正確だ。
空気は、勝手にそこに在るものではない。毎朝、誰かが窓を開けていた。
開ける手を失った部屋がどうなるか——答えはもう、国境の向こうで出ている。
明日は次の協定の席次表を引く。私を手放した国の話は、もう私の予定帳には載っていないのだから、それで結構ですわ。




