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よくできました、殿下。そこまで反省なさったのであれば、特別に私の犬にして差し上げます。  作者: イレニス
第一章 門前の雨

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第3話 王宮をひとつ、陛下をひとつ

息苦しい女、と言われた日のことを、まだ覚えている。


忘れるには言葉が上等すぎて、捨てるには十年が惜しすぎた。


だから私は帳簿につけることにした。費目——勉強代。回収見込み——なし。


王宮温室の裏手に、誰も来ない細い日陰がある。十年の妃教育のあいだ、私の逃げ場所はそこだけだった。


そこに猫が住んでいた。痩せた野良で、灰色の縞、琥珀の目。媚びない。膝には乗らない。干し肉を置いても、私が三歩下がるまでは近づかない。


最初の年は、近づくだけで逃げられた。二年目に干し肉を覚えさせ、三年目にようやく、私が話している間だけは逃げないようになった。聞いているのではない。食べているだけ。分かっていても、通った。


「今日ね、茶葉の産地を三つ間違えただけで居残りだったの。東部の春摘みと夏摘みなんて、淹れてしまえば誰にも分からないのに」


「晩餐の席順って、覚える価値があると思う? 隣国の侯爵夫人と伯爵未亡人、どちらを上座にしても誰かが怒るのよ。だったらいっそ、くじ引きにすればいいんだわ」


猫は答えない。それでよかった。答えない相手にだけ、人は本当のことを言えるのだから。


人前では「わたくし」で、語尾には「ですわ」を縫いつけて、十年。鎧の継ぎ目を外せる場所は、この日陰の三歩ぶんだけだった。


婚約破棄の日も、私は屋敷へ帰る前に温室裏へ寄った。


夜会用の靴は石畳に向かない。踵の音が、自分のものではないみたいに遠かった。


「ねえ。私、そんなに息苦しい女だったかしら」


猫は干し肉を咥えたまま、琥珀の目でこちらを見た。肯定も否定もしない。ただ、噛む速さがほんの少しだけ落ちた。——聞いてはいるらしい。それで十分だった。


慰めの言葉なんて、あの広間で浴びるほど聞いた。形ばかりの、誰のためでもない言葉を。だからこの沈黙のほうが、よほど上等だった。


そこからのヴァルモンテ家は速かった。


父は怒鳴らない人だ。代わりに、文面が整うまで決して判を捺さない。ヴェルダンテ王家との慰謝交渉は三月に及び、王家側の使者は四人入れ替わった。


「旦那様は本日、第七稿を突き返されました」


家令がそう報告したのは、王家が「双方円満」という文言を入れたがった日の、よりにもよって夕食の席だった。四十年この家に仕える老家令は、事実だけを、必ず最悪のときに告げる。


「あなた、それを今言う必要があった?」


「ございません。ですが旦那様が、お嬢様の食欲を確認せよと仰せでしたので」


「……おかわりをちょうだい」


「よろしい傾向でございます」


交渉の中身は知らない。ただ最終稿に父が判を捺した夜、書斎から葡萄酒の栓を抜く音が一度だけ聞こえた。費目——慰謝料。受取人——ヴァルモンテ家。私の取り分は、自由と、片道の旅費。悪くない配当だと思う。


身ひとつで国を出ると決めた朝。空は晴れていて、それが少し癪だった。馬車に乗り込むと、先客がいた。老家令が当然の顔で座席に収まり、膝に旅行鞄を載せている。


「あなた、ヴァルモンテ家に四十年仕えた人でしょう」


「四十一年目は、お嬢様にお仕えする年と決めております」


費目——人件費。ただし本人が受け取りを辞退するため計上不能。こういう借りが、いちばん高くつく。


馬車が動き出してすぐ、御者が妙な声を上げた。


窓から見れば、灰色の縞が王宮の前庭を——あの広い前庭の半分を、まっすぐに横切ってくる。垣根を抜け、衛兵の足元をすり抜け、馬車の真横に並んで、それでも走るのをやめない。


止めて、と言うより先に、手が扉を開けていた。


猫は当然の顔で乗り込み、私の膝の——すぐ隣に、きっちり三歩ぶん離れて座った。膝には乗らない。最後まで媚びない。


「……あなたまで」


私を選ぶの、と続けかけて、やめた。選ぶ、というのは損得を数える者の言葉だ。膝に乗れば餌が増えるでも、三歩離れて損をするでもない。この獣は、何も数えていない。ただ、来た。前庭の半分を、誰に命じられるでもなく。


「……物好きね」


猫は前足を舐めた。散歩のついでだ、とでも言いたげに。でも、王宮の半分は、散歩にしては長すぎるのよ。


痩せた脇腹がまだ速く上下しているのを見なかったことにして、私は窓の外へ目を戻した。視界の端が、少しだけにじんでいた。埃のせいにしておく。


国境手前の宿場町で、私は猫のために上等なクッションを買った。羽毛入り、絹張り、私の旅費の三日分。


「贅沢では」と家令が言う。


「必要経費よ。主の座り心地は従者の責任ですもの」


費目——調度費。決裁者——私。承認——即日。帳簿ごと自分のものになると、稟議とはこんなにも速い。


国境を越えるとき、名前をつけた。


「陛下、とお呼びすることにしたわ」


家令が初めて眉を動かした。


「殿下、ではなく」


「王妃教育の十年を袖にしたのが殿下よ。その私の主になるのだから、殿下より上の位でなければ釣り合わないでしょう」


猫——陛下は、クッションの上で目を細めた。即位のご感想は、ない。それでいい。


王宮をひとつ捨てて、気まぐれな陛下をひとつ拾った。


悪くない交換だった、と帳簿のいちばん最後に書いておく。

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