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よくできました、殿下。そこまで反省なさったのであれば、特別に私の犬にして差し上げます。  作者: イレニス
第一章 門前の雨

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第2話 鏡の前でだけ

春の中庭には、まだ薔薇が咲いていなかった。


咲いてもいないのに、足元に花びらが散っている気がした。十年かけて積み上げてきたものが、音もなく崩れていく——その音の、代わりのように。


「ロゼリア嬢。あなたとの婚約を、解消させていただきたい」


一年半前。ヴェルダンテ王宮の中庭でのことだ。


セドリック殿下の声は、春の陽だまりによく通った。夜色の黒髪に光が透けて、金茶の目はまっすぐに私を見ていた。八歳の春、初めてお目にかかった日と同じ礼儀正しさで。同じ正しさのまま、殿下は私に刃を立てた。


中庭には人が多すぎた。離宮の侍女たち、お茶会帰りの令嬢たち、近衛の若い騎士。つまり殿下は、わざわざ人前を選んだのだ。書状一枚で済む話を、春の庭で、観客つきで。


「理由を、お聞かせいただけますか」


声は揺れなかった。揺らさなかった、というほうが正しい。十年の妃教育で最初に叩き込まれるのは、語学でも礼法でもない。声を、自分の手の内に置くことだ。


「……あなたは、完璧すぎる。隣に立っていると、息が詰まるのです」


完璧。


八歳から、十年と少し。語学、礼法、外交、帝王学。眠る時間を削り、爪の先まで、求められた形のとおりに自分を磨いてきた。求めたのは王家で、応えたのは私で——その罪状までもが、私のものになるらしい。


殿下の半歩後ろには、男爵令嬢のリュシーが立っていた。俯いて、両手を胸の前で固く組んで。睨みもせず、勝ち誇りもせず、ただ春の光の中で小さくなっていた。


一度だけ、その娘が顔を上げて、私と目が合った。睨むのでも、勝ち誇るのでもない。手の中のものが自分のものにはならないと、もう知っている目だった。何か言いかけて、言葉を持たない娘の目。——私はそれを、すぐに帳簿の外へ弾いた。今日の私に、令嬢の目つきを検算している余裕はない。


悪役に仕立てるには、あまりに素直な娘だった。だからこそ、立っていられないほど可笑しかった——完璧を磨けと言った口が、磨かれていないものを選ぶのだ。


「怒らないのか」


殿下は、そう訊いた。怒られる覚悟だけはしてきたらしい。覚悟の方向が、最後まで間違っている。


「お慕いしておりました」


私は言った。事実だったからだ。八つのときから婚約者だった人を、慕わずに育つ方法を、私は教わらなかった。


「ですが、賢いので」


扇を一寸だけ開いて、私は微笑んだ。目は、笑わせなかった。


「値のつかない場所に、これ以上わたくしを置いておきませんの」


殿下は、安堵した顔をなさった。


泣かれなくてよかった、という顔。縋られなくてよかった、という顔。十年で一番、その顔が応えた。怒鳴られるより、泣かれるより、ずっと。私が静かに退くことに安堵する程度の重さしか、私にはなかったということだ。


「左様でございますか」


私は裾を取り、膝を折った。背筋から指先の角度まで、教本に一分の狂いもない、最上位の礼。


「承知いたしましたわ。わたくし、ヴァルモンテ家の娘として、つつがなく承ります。以後のお手続きは、当家の代理人をお通しなさいませ。殿下が直々にお運びになる必要は、もうございませんもの」


踵を返す。回廊へ出たところで、扇の陰の囁きが追いかけてきた。きちんと届く声量で囁かれる、聞かせるための囁きだ。


「ご覧になって、あの髪」


「緋色だなんて、まあ。……可愛げのない色ですこと」


くすくすと、絹擦れのような笑いが続いた。母から受け継いだ、緋のかかった薔薇色の髪。私は歩幅をひとつも変えず、顎の高さも変えず、回廊を渡りきった。背中で囁きが萎れていくのが分かった。振り向く値打ちのあるものは、あの庭のどこにも残っていなかった。


馬車の扉が閉まる。車輪が石畳を噛み、ヴェルダンテの尖塔が窓の向こうで小さくなっていく。


御者にも侍女にも見えない、ひとりきりの箱の中で、私は胸元から細い鎖を引き出した。銀のペンダント。蓋を開くと、親指の腹ほどの小さな鏡がはまっている。母の形見だった。


——公爵令嬢は、鏡の前でだけ泣きなさい。


幼い私の髪を梳きながら、母はそう教えた。誰の前でもなく、神の前でもなく、鏡の前でだけ。鏡なら誰にも言いつけないし、泣き終えた顔を、いちばん先に整え直してくれるから——そう言って、母は笑っていた。その母は、私が十二の冬に逝った。棺の前でも、私は教えのとおりにした。蓋の裏の小さな鏡だけが、あの冬の私を知っている。


小さな鏡の中に、私がいた。


髪は一筋も乱れていない。目の縁は乾いている。唇は、薄い微笑みの形を保ったまま。たったいま十年の婚約を捨てられてきた娘の顔では、なかった。どこにも欠けたところのない、公爵令嬢の顔だった。


泣き叫ばなかった。縋らなかった。リュシーを指さして声を荒らげることも、扇を投げつけることもしなかった。礼は完璧で、退出は静かで、囁きには足を止めなかった。母が見ていたら、きっとあの細い指で私の髪を撫でてくれただろう。


「上出来ね」


鏡の中の私に、そう告げた。


告げた瞬間、喉の奥が震えた。鏡の中の微笑みが、ほんのわずかに、歪んだ。窓の外を春の並木が流れていく。あの庭に置いてきたはずのものが、胸の浅いところで軋んだ。


三分、と決めた。十年の清算に、涙の予算は三分。我ながら渋い帳簿だと思う。これ以上計上すれば、あの方の値段が上がってしまう。捨てた側の男に、そんな贅沢はさせない。


三分で、喉は私の手の内に戻ってきた。揺れる車内で背筋だけは伸ばしたまま、私は銀の蓋を、音を立てずに閉じた。小さな鏡は、何も言いつけない。


上出来、だったはずなのに。

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