第1話 濡れた犬を屋敷に入れる趣味はございませんの
私を捨てた殿下が、私の門の前で濡れている。
傘を持たせるべきか、門番に追わせるべきか——どちらも経費の無駄だと、最初に思った。
雨は三日目。帝都サンクレールの秋の長雨は、容赦というものを知らない。
報せを持ってきたのは家令だった。ヴァルモンテ家に四十年仕えるこの老人は、悪い報せほど声を整える。
「お嬢様。門前に、セドリック・ヴェルダンテ様がお見えです。本日で三日目。本日分は、ただいま六時間を超えました」
「客間の暖炉は」
「焚いておりません。お通しする予定がございませんので」
「よろしい」
家令は一礼して下がった。下がり際、私の手元の書類が一枚も進んでいないことを、見なかった顔で見ていった。四十年選手の目は経費がかからないぶん、性質が悪い。
——査定しよう。私は窓辺に立ち、ガラス越しに門前を見下ろした。
元王太子セドリック・ヴェルダンテ、二十二歳。資産、なし。爵位、なし。後ろ盾、なし。一年半前、十年の妃教育を修めた婚約者に「君は完璧すぎて息が詰まる」と言い放った男。市場価格を帳簿に記すなら、雨ざらしの外套一着分。その外套も仕立てて五年は経っている。減価償却はとうに済んで、残存価値は——濡れている分だけ、むしろ負債だった。
十年の妃教育。儀礼、派閥、財政、外交。あの国に投じた私の十年は、回収不能債権として処理済みだ。処理済みの債権が雨に濡れて門前に戻ってくる事例は、どの教本にも載っていなかった。
跪く姿勢だけは崩れていなかった。背筋が雨の中でまっすぐで、組んだ手の指先が白い。夜色の髪が額に貼りついて、金茶の目だけが、こちらの窓を——
帳簿外。
観察に三十秒も費やした。この三十秒は経費に計上しない。なかったことにする。
私は階下へ降りた。傘は持たなかった。庇の下から出る予定がないからで、それ以外の理由は存在しない。
門扉を挟んで、彼は跪いたまま頭を垂れた。
「ロゼリア様」
「ヴェルダンテ卿——いえ、今は何とお呼びすれば? 称号の在庫が切れておいでのようですけれど」
「セドリックと。それ以外の名は、もうございません」
弁明をしない。昔のこの男の言葉には「だが」と「仕方なく」が薬味のように振られていたものだ。没落は人を黙らせる。授業料としては国一つ分——ずいぶん高くついた講座だこと。
「ご用件を伺いますわ。手短に。雨は冷えますので。——わたくしが」
「あなたの犬にしてください」
雨音が、一拍だけ遠くなった。
「……今、何と?」
「犬で結構です。臣下では、おこがましい。あなたの隣に立つ資格は、私が自分で捨てました。ですから、足元に。命じられたことを果たす犬として、置いてください」
頭を下げたまま、声は震えていなかった。手の甲に古い擦り傷。爪の間に荷役の煤。この一年半、働いたことのなかった手が、働かされてきた跡——
帳簿外。
芝居なら、こういう手は隠すものだ。濡れて、跪いて、傷を訴え、同情で値を吊り上げる——落ちぶれた者の常道は、そちらにある。この男は、逆をやっていた。傷を袖の内に隠し、弁明を捨て、ただ足元だけを乞う。一夜で作れる顔ではない。一年半、毎朝この顔で目を覚ました者の、顔だった。
費目化しよう。犬一頭。餌代、寝床、躾の手間。対して見込まれる収益——王宮の内情、旧王家派閥の知識、それから。それから、が出てこない。算盤が珍しく途中で止まった。止まった算盤は弾き直せばよろしい。
「殿下」
私はわざと旧い敬称で呼んだ。彼の肩が、打たれたように小さく動いた。
「犬というのは、忠実で、賢く、主人の価値を正しく知る生き物ですわ。あなたは三つのうち、いくつお持ちかしら」
「これから、証します」
「証してから来るものよ。——一生お待ちになることね」
私は門番に目で合図した。門は、下ろされたまま動かない。
「お帰りなさい、セドリック様。それから——次にいらっしゃるなら、乾いた外套でどうぞ。濡れた犬を屋敷に入れる趣味は、わたくしにはございませんの」
踵を返した。背中に視線を感じたが、振り返るという工程は本日の予定表に存在しない。
玄関の扉の内側で、家令が乾いた布を持って立っていた。私は、濡れていないのに。
「お嬢様。お召し物の裾が」
「裾くらい、乾きます」
「左様でございますか。——明日も降るそうでございます」
「明日の話はしていないわ」
家令は布を畳み、何も言わなかった。何も言わないという言い方で、すべてを言う老人だった。
扉に手をかけて、私は門のほうを一度だけ——いいえ。一度も見なかった。これは帳簿に載せるまでもない、ただの事実。
「犬の躾は、得意ではありませんの」
扉が、閉まった。




