第10話 完璧の値段
夜明けまで、門番小屋脇の灯りが消えない。二晩続けてである。
蝋燭代は私の財布から出る。つまりあの男は、私の金で、私の過去を読んでいる。
——請求書の宛先を思い浮かべるだけで、ペン先が要らぬ速さで走った。
元王子は二日、屋敷から一歩も出なかった。机に旧予定帳を広げ、付箋を貼り、頁の角を折らずに紙片を挟む。食事は厨房裏で立ったまま済ませようとして、料理長と小競り合いになったそうだ。
「昨晩は厨房裏にて、立ったままパンと冷製の肉を召し上がりました。本日も同様でございます。皿洗いまで手伝おうとなさいまして、料理長が柄杓を構えました」
家令が、私の朝食の最中にそれを報告してくる。四十年仕えて、報告の中身は正確、時機は最悪。
「卵が冷めたわ」
「左様でございますね。なお料理長は『厨房の秩序が乱れる』と申しております。元殿下は『手が空いているので』と仰せでした」
「手が空いているなら頁をめくらせなさい。そのために置いているのよ」
家令経由で言伝を出した。座って食べよ。皿洗いに手を出すな。冷えた犬は働きが鈍る。
情けではない。備品管理である。査定中の犬候補が腹を壊せば日程が延び、延びれば蝋燭代がかさむ。帳簿には「査定対象維持費」と立てておいた。
「お言葉、そのままお伝えしてよろしゅうございますか。『冷えた犬』の箇所も」
「一語も変えずに」
「左様でございますね」
家令は一礼して下がった。あとで聞いた話では、元王子はその言伝を聞いて、初めて椅子に座って食べたという。礼を述べたかどうかは報告に含まれていなかった。含める必要もない。礼は帳簿に載らない。
ところで本日、冬用の御座布団が三枚届いた。
「秋でございますが」
「陛下の御座所は五箇所あるのよ。日向が二、暖炉前が一、書庫の窓辺が二。冬は急に来ますの。秋のうちに買えば安い。賢い買い物ですわ」
「左様でございますね。請求書の費目は」
「『主要人物厚遇費』と書いておきなさい」
陛下は灰色の縞の尾を一振りして、新しい布団の検品を始めた。琥珀の目が三枚目の上で止まる。御裁可が下りたらしい。私の目利きに狂いはない。
あの男が読んでいる余白の中身を、私は全部覚えている。書いたのは私だ。読み解くも何も、答え合わせの相手はこの屋敷で紅茶を飲んでいる。
たとえば「晩餐は東側二席を空ける」の一行。たとえば「王妃の御前で、男爵令嬢の名を出さない」の一行。どちらも、一行だけ見れば、ただの席次の趣味にしか見えないだろう。その一行が何のために書かれたかは、書いた私だけが知っている。彼が付箋を貼り、頁の角に紙片を挟んで、どれだけ近づこうと——その意味を、私の口から教えてやるつもりはない。請求先のない仕事ほど、高くつくのだから。
二日目の夕、廊下ですれ違った。
彼は予定帳と付箋の紙片を手に、壁際へ寄り、膝をついて道を譲った。犬候補としては正しい姿勢である。減点はない。加点もしない。
通り際、視界の端に映った。二晩眠っていない男の、襟は崩れかけているのに、靴だけは鏡のように磨いてある。立ち食いをして柄杓を向けられる男が、私の前を歩くかもしれない床のために、靴を磨いている。
帳簿外。
「ひとつだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
彼は顔を上げない。
「これを書いていた頃、あなたは何時に眠っておいででしたか」
帳尻の合わない問いだ。書かれた中身ではなく、書いた人間の夜を訊いてくる。
「覚えておりませんわ」
嘘である。覚えていないのではない。あの頃、書く時間が夜しかなかっただけだ。昼は表の顔で埋まっていた。茶会、視察の随行、王妃の機嫌、あなたの隣の席。余白に書くことが増えるほど、蝋燭は短くなった。誰の帳簿にも載らない夜だった。
「殿方が淑女に尋ねてよい事柄は、就寝の時刻ではなくてよ」
「左様ですか。不躾を申しました」
彼は膝をついたまま紙片に何かを書きつけ、頭を下げて動かない。私は歩調を変えずに通り過ぎた。
部屋に戻ると、陛下が新しい御座布団の真ん中で丸くなっていた。検品済み、受領印代わりの毛が三本。冬用の備えはこうして無駄なく消化されていく。私の支出に、無駄なものはひとつもない。
完璧の値段を、今ごろ調べ始めたのね。
十年ぶんの私の文字——精算には、骨を折ることだ。




