第11話 幕間・国境の向こうで裏が取れる(犬視点)
秋の長雨が国境の山道を泥に変えていた。セドリック・ヴェルダンテは乗合馬車を二度乗り継ぎ、三度目は行商の馬車の荷台にいた。客として乗ったのではない。次の町での荷下ろしを手伝う約束で、油布の下、香辛料の木箱の間に座らせてもらったのである。
行商の主人は彼の顔を知らなかった。元王太子が荷台にいると知れば腰を抜かすだろうが、知る道理がない。当然だ、と彼は思う。王太子の顔を覚える必要のない人生が、この国の大半なのだ。玉座の間からは、その大半が一度も見えなかった。
「兄さん、手が貴族だね」
休憩の茶屋で、主人が彼の掌を覗き込んで笑った。荷縄で擦り剥けた皮と、その下のペン胼胝しかない白い手だ。
「荷を運ぶ手にしちゃ、軟らかすぎる。本業は、何の仕事だい」
「犬です」
主人は、はあ、と間の抜けた声を出した。
「番犬の、見習いを」
主人は声を上げて笑い、慣れない仕事だろうと気の毒がって、団子を一串奢ってくれた。彼は礼を述べて受け取り、雨を見ながら食べた。砂糖醤油は焦げて辛く、存外うまかった。残りの行程で荷の積み方と縄の掛け方を覚え、三度目の荷下ろしでは主人より早く縄を解けるようになった。別れ際、主人は「次も国境を越えるなら声を掛けな」と言った。給金代わりの言葉として、悪くなかった。
王都ヴェルダンテ。生まれ育った街は、雨に濡れて他人の顔をしていた。彼は外套の頭巾を上げ、訪ねるべき三人の名を順に思い浮かべた。旧予定帳の余白、彼女の筆跡が指している三つの出来事の、当事者たちである。
一人目は旧側近の屋敷である。玄関先までしか通されなかった。
「今さら令嬢の手帳の解読ですか。殿下も酔狂なことだ」
かつて彼の右隣に立っていた男は、傘も差さずに濡れて立つ元主君を、軒先から見下ろして嗤った。彼は言い返さなかった。弁明の言葉なら山ほど知っているが、使い途のない言葉を口にする習慣は捨てた。五年前の狩猟会の決闘騒ぎについてだけ尋ねた。
あのとき、若い侯爵令息が彼の放言に激昂し、決闘を申し込む寸前まで行った。騒ぎは一夜で立ち消えた。彼は長らく、自分の声望が相手を退かせたのだと思っていた。違った。前夜のうちにロゼリアが相手方の夫人を訪ね、騒ぎの種を金と縁談の周旋ごと買い取っていたのである。男はそれを「令嬢の小細工」と呼び、「殿下は鼻歌で猟場を歩いておられた」と付け加えた。事実である。彼は礼を述べて門を出た。雨は止んでいない。
二人目は辺境伯夫人である。老婦人は茶も出さずに本題を斬った。
「あなたの招待状はね、殿下。あの方が去ってから、ただの紙切れになりましたのよ」
社交界で彼の招待が断られたことは一度もなかった。文面の格調と、署名の重みゆえだと思っていた。夫人によれば、文面は今も同じ格調のままだという。同じ紙、同じ印章、同じ署名。効力だけが消えた。あの招待状に応じれば茶会の席次から贈答の釣り合いまで一切の粗相が起きない——そう諸家に信じさせていた目配りは、署名の外側にあった。書いていたのは彼で、通していたのは彼女だったのだ。夫人は最後にこうも言った。「紙切れを寄越し続けた十年、あなたは一度も気づかなかったのね」。彼は気づかなかった、とだけ答えて辞去した。
三人目、南方伯家は門を開けなかった。家令が口上だけを伝えた。
「祝辞の前に弔意を欠いた方と、当家が話すことはございません」
三年前、南方伯の母堂の喪中に、彼は婚約披露の祝辞を求める書状を送っていた。送った記憶すらなかった。届く前に差し止められていたからだ。差し止めた者の名は、もう確かめるまでもない。
一件裏が取れるたび、同じ結論が同じ顔で立っている。私が優しかったのではない。優しく見えるように、守られていたのだ。
帰り道、王都の市で帳面を買い直した。前の一冊は、国境の雨で藁紙がふやけ、写した字が滲んでしまった。同じ、銅貨二枚の藁半紙の粗末な帳面である。店主は釣りを渡しながら「学問かい」と訊いた。躾だ、と答えそうになり、書き物だ、と言い直した。
国境を逆に越え、帝都の安宿に戻ったのは五日目の夜である。屋根を打つ雨音の下、ランプを灯し、新しい帳面に、御言葉を写し直した。
九月十二日。犬の躾は、得意ではありませんの。
九月十三日。一生お待ちになることね。
九月十四日。あなたに残された場所は、私の後ろだけです。
三行になった。叱責を書き溜めて読み返す趣味はどうかと思う。思うだけで、やめない。
卓上には旧予定帳。余白には彼女の十年が、几帳面な筆跡で詰まっている。期限はあと二日。雨音の中、彼は両手で顔を覆った。覆っても結論は消えなかった。だから手を下ろし、ペンを取り直して、続きを書いた。




