第12話 気遣いではありません
インクの匂いは、嫌いではない。
むしろ好ましいとさえ思っているから、扉を開けた瞬間に胸の奥がわずかに浮ついたことを、私は誰にも申告するつもりはない。
七日目の朝である。約束の期日。窓辺では陛下が前脚を几帳面に折り畳み、検分官の顔で待機していた。
セドリック殿下は、机の前に立っていた。指の腹に、落としきれなかったインクの染み。右の中指だけ、染みが層になっている。書き損じて、削って、また書いた指だ。差し出された紙束は、頁の角が定規で測ったように揃えられている。徹夜の濃度は紙の重さでわかるものだ。仮に費目を立てるなら「誠意・消耗品費」。単価は睡眠時間で換算する。三晩分というところか。
「お納めください。……いえ、ご査定ください」
言い直した。納品と査定の違いがわかるようになったのなら、七日前よりは進歩している。七日前のこの人は、紙束を差し出すという行為そのものをしたことがなかったのだから。
「拝見しますわ」
私は椅子に掛け、一枚目をめくった。
東側二席の序列の根拠——正しい。先々代の降嫁にまで遡って裏が取ってある。二枚目。関税の控除と招待状の文言の対応——正しい。茶葉の産地名が値引きの符丁だったことまで、商会の帳簿で裏を取っている。どこの書庫に潜ったのか、写しの綴じ紐まで几帳面だった。九割は、正しい。採点する側の頬が緩みそうになる程度には。十年かけて私が積んだものを、この人は七日で測りに来た。測れた分だけは、認めてよい。
三枚目で、私の指が止まった。
『南方伯夫人への、細やかな気遣い』
その一行を、三度読んだ。読み返すたび、自分の声が低く沈んでいくのがわかった。陛下の尻尾が、ぴたりと止まる。
「殿下」
「はい」
「不合格です」
突き返した紙束が、机の上で音もなく揃う。彼は弁明しなかった。ただ、どこが、と目だけで問うてくる。だから私は、ゆっくりと教えて差し上げることにした。
「気遣いではありません。あれは外交です」
南方伯夫人は、あの春、息子を亡くしたばかりだった。王家は弔問を落とした。落とされた借りは、利息をつけて膨らむ。膨らむ前に、私が一文の弔意で肩代わりした。費目で言えば「弔意」ではない。「王家信用の補填」である。それだけのことだ。
「『気遣い』とは便利な言葉ですのよ、殿下。そう呼んだ瞬間、報酬も、肩書も、引き継ぎ書も、要らないものになりますの。気遣いに領収書は切れませんでしょう。請求書も、です。便利でしょう——支払う側にとっては」
声は低く、言葉は丁寧に。怒鳴る必要はない。格で勝てばよい。
「わたくしは十年、そうやって帳簿の外に消されてまいりました。夜会の席次も、関税の符丁も、夫人への一文も、全部『よく気がつく妃だ』の一言で精算済み。残高はいつも零ですわ。働きを名づける言葉を間違えると、そうなりますの」
紙束の角を、指の先で揃え直す。彼が揃えたのと、同じ角度に。
「離縁の日、引き継ぎ書を三十枚残しましたのよ。誰がどの借りを抱え、どの一文で返したか、全部です。誰も読みませんでした。気遣いは引き継げない、と皆さま思っていらしたのでしょうね。——読めば済む話でしたのに」
殿下は紙束を見、それから自分の指の染みを見た。長い沈黙だった。頭を下げる代わりに、背筋を伸ばした。
「南方伯家にもう一度断られるところから、始めます。二日で」
「断られに行く、と仰るの」
「はい。あなたが何を肩代わりしたのか、断られてみなければ正確には測れませんので」
——査定欄に、小さく加点。本人には言わない。控えにも残さない。私の査定簿は、私にしか読めない書式でつけている。
「ならば、お行きなさい。二日。三日目の朝に一枚でも遅れたら、減点ではなく失格ですわ」
「承知しました」
「それから、殿下。旅費は経費で落ちませんわよ。反省は自己負担と相場が決まっておりますの」
「……心得ます」
「よろしい。断られた回数は記録しておおきになって。査定の参考にいたしますから」
一礼して、彼は紙束を抱え直した。頁の角を、また几帳面に揃えてから。扉が閉まる。
不合格を告げた自分の声が、思ったより柔らかかったことについては——帳簿外。
「やり直し」
誰に言うでもなく呟くと、窓辺で陛下が、ふん、と鼻を鳴らした。灰色の縞の尻尾が一度だけ揺れる。琥珀の目が、甘いぞ、と言っている。猫の裁可は、どうやら条件付きで下りたらしい。
二日後の再提出、受理して差し上げますわ——とは、まだ言ってやらないけれど。




