番外編・棚卸し
戴冠の式が終わり、人払いを済ませた執務室で、私はその帳面を、机に伏せたまま見ていた。
彼が差し出したのは、もう何日も前のことだ。受け取ったきり、開けずにいた。開けば計上しなければならなくなる。帳簿の人間というのは、見てしまったものを未計上のままにしておけない。だから見ずにいた。臆病とは言わないでほしい。先送りと言ってちょうだい。
十年、私は人の帳面ばかりを検めてきた。誰の働きにも値をつけ、可否を下す側にいた。机の上にあるのは、私を検めた帳面だ。査定される側へ回るのは、戴冠よりも、よほど不慣れな仕事だった。
*
戸が、低く叩かれた。
人払いは済ませたはずだった。それでも入ってくる者が、この屋敷には一人いる。盆に、湯気の立つ碗を一つ。名を訊いたことのない老家令だった。八つのころから、私は彼を「家令」とだけ呼んできた。
「白湯にございます。式のあとは、喉が渇くと決まっておりますれば」
頼んだ覚えはない。毛布のときも、茶のときも、そうだった。この屋敷には、命じられぬ先に運ばれてくるものが、いくつかある。私は礼を述べ、碗を受け取った。
老人は出ていく気配を見せず、机の上に目を落とした。落としたまま、動かさなかった。伏せたままの、薄い帳面の上で。
「古いお帳面に、新しい留め紐でございますな」
私は答えなかった。弁明する材料はいくらでもあったが、この男の前で弁明をしたことは、四十年、一度もない。
「四十年、人の隠し事を見て参りました」老人は碗の湯気を見ながら言った。「中身は存じません。ただ、開け方で、おおよその見当はつくものにございます。——請求書を開く手と、贈り物を開く手は、ためらいが違いますゆえ」
戴冠の夜は、よく晴れていた。雨の音はしなかった。
「ただいまのは」と、老人は言った。「贈り物を、開けかねるお手にございました」
私は碗を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。この男は、帳面を開けとは言わなかった。中身を見ずに、外側だけで、私が何をしようとしているかを言い当てていた。——いつか、どこかで、同じ目が、同じことを別の誰かに言った気がした。贈り物を、隠す手にございました、と。隠す手と、開けかねる手。表と裏で、同じ一冊の話をしていたのだ。
「本日、お嬢様にご報告すべき事実は」やがて老人は盆を取り上げた。「ございません」
ございません、と言い切った。今宵私が何を開いたかも、開けずにいたかも、誰にも申し上げぬ、という意味の「ございません」だった。四十年、最悪のときに事実だけを告げてきた男の、二度か三度の、省略だった。
「冷めますと、ただの水にございます」老人は戸口で一礼した。「贈り物も、白湯も、そこは同じにございますれば」
戸が閉まった。
碗の白湯を一口飲んで、私は、ようやく帳面を表に返した。受け取る側の手が空くまで温めておくものだと、いつか誰かが言ったらしい。手は、空いた。今夜、ようやく。
*
一頁目から、私の言葉が並んでいた。
日付がある。場所はない。どこで言われたかは、彼にとってどうでもよかったのだろう。誰に向けた一言か。それだけが、書き留める値打ちだった。
「一生お待ちになることね」
門前で、雨に打たれていた男へ言い捨てた言葉だ。割れたペンの先が、最後の一画をかすれさせている。言い捨てるのは一息だが、写し取るのには、息がいる。この一行に、この男は、私の何倍もの時間をかけていた。
私は、この十年、彼の仕事を一段ずつ査定してきた。数えるのはこちらの役目だと思っていた。けれど、頁をめくる手が止まった。数えていたのは、こちらだけではなかった。私が可否を裁いていたその同じ日に、彼は、裁かれた言葉のほうを、一つも捨てずに綴じていた。
賞賛は、一つもない。命令と、訂正と、ごく稀の「悪くありません」。私がこの男へ投げたのは、石ばかりだった。その石を、彼は一つも落とさず、日付をつけて、宝のように並べている。値の張る言葉ばかり与えていたのは、私のほうだったらしい。
こんな帳簿の付け方は、認められない。受け取った覚えのない恩が、勝手に資産へ載っている。勘定の、合うはずもなかった。——合わないまま、私は、しばらく次の頁をめくれなかった。
最後の頁に、こうあった。
「待て、と言ったはずです」
リュシーの一件で、勝手に動いた彼を叱った日の言葉だ。書き写した字は、震えていない。叱られたその日に、叱った声を、こうも丁寧に保存する。わかっていたつもりで、私は、何もわかっていなかった。
*
頁が尽きたと思った。けれど帳面には、まだ厚みがあった。
裏返す。もう一方の端から、別の見出しが綴じられている。両端から使っていたのだ。一冊の帳面を、二つの帳簿として。
「女王陛下のための頁」
——私が、まだ誰にも女王と呼ばれていなかった頃の日付だった。
この見出しを、私は知っていた。いつか家令が、一度だけ、事実として告げたことがある。あの男がこういう頁を起こしている、と。意見は添えず、ただ、ある、とだけ。その同じ口が、今宵は白湯を運んで、何も言わずに去った。四十年、報告すべきでないものを畳み続ける口だ。
儀典の段取り。式次第の控え。そして、お疲れの日の茶葉の銘柄。——私自身が忘れていた好みだった。疲れた夜に何を口にすれば気がほどけるのか、私は知らない。この男は、知っていた。私より先に、私の身体のことを。几帳面でない字で、几帳面に、十一頁。誰も信じる前から、彼ひとりが、立つ当てもない治世の支出を、先に払い続けていた。
ここで泣くのは、たやすい。息を、長く一つ吐いた。喉の奥が、決裁を待たずに緩もうとする。たやすいから、しない。
私は女王になった。女王は、自分の頁を自分の字で埋める人だ。誰かに余白を埋めてもらい、埋められた字を自分の徳と呼ぶ椅子には、もう座らない。
だからこの十一頁は、役目を終えた。ありがとう、とは書かない。書けば、彼の備えを優しさとして消費してしまう。これは、もう不要になった備えだ。不要にしたのは、私だ。——そう言い切ることだけが、この十一頁に、私の返せる唯一の礼だった。
——よくできました、とは、まだ言わない。あの言葉は、いちばん高い棚に鍵を掛けて、取ってある。
*
最後の見出しは、短かった。
「女王陛下の敵」
名が並び、線が引かれている。グランヴィル。その下に、増えていった名。守るのではなく、私の戦場を私のものに保つために、彼が下から照らし続けた線だ。数えることしか知らない男だった。だから、守るのも数で示すしかなかった。敵を一つずつ書き出すことが、この男にできる、せいいっぱいの愛し方だったのだ。
その頁の先に、空白があった。
敵の名が尽きて、白いまま残された頁。彼は、ここから先を空けておいた。書く者を、決めかねたのだろう。あるいは決めていて、自分の字では畏れ多いと退いたのか。——その、退いた手のためらいの分だけ、私はこの男を、もう一度、値踏みし直さねばならない。
ペンを取った。指が、思ったより冷えていた。
空白の一行目に、自分の字で書き込む。
十年、書いた。十年、消された。そのあいだ、二冊の帳簿は一度も突き合わされなかった。たった一件だけ、どちらの帳簿にも載せずにきたものがある。未計上のまま、利息だけが、十年、膨れ続けていた。
その費目を、ようやく起こす。
「——及第点」
彼がいつか、自分の帳面に、自分で書きつけた言葉だ。今夜、私の字で、彼の帳面へ返す。同じ語を、向きを変えて。これで二冊の貸し借りが、十年ぶん、ようやく一行で揃う。
見つけるのは、いつでもいい。見つけた日が、この一行の決済日になる。
ペンを置く。涙は、予算の三分の一だけ許した。それ以上は、女王の決裁が下りない。残りの三分の二は、明日のあの男のために、繰り越しておく。
扇を開き、内側で口元を隠す。隠したものが何だったかは、誰にも見せない。戸の外の、あの老人にも。
帳面を閉じ、留め紐を結ぶ。新しい紐だけが、古い帳面に、まだ硬かった。
明日になったら、あの男を呼ぼう。呼んで、何と言うかは、まだ決めていない。決めていないことにしておく。そのほうが、明日が一行、楽しみになる。
碗の白湯は、まだ温かかった。冷める前に、飲んでおく。冷めれば、ただの水になるそうだから。
十年ぶんの貸し借りが、一行で揃う夜でした。ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。この物語が少しでも胸に残りましたら、ブックマークやご評価で栞を挟んでいただけると、とても励みになります。
残るは最終話『何でもない一日』(8月14日 21時台)。二人と一匹の、いちばん普通の一日でお会いしましょう。




