番外編・家令四十年(二) 申し送り
手前には、夜、もう一つ、役がございます。
番犬の寝床へ、毛布を一枚、足しに参ること。契約には、ございません。お嬢様は、毛布は二枚までと、お書きになりました。手前が足すぶんは、その先にございます。——手前の帳簿には、載せておりません。載せれば、お嬢様の御目に触れます。触れれば、あの方が、礼を申し上げねばならぬ立場になる。礼は、貸し借りを生みます。手前は、貸しを作りに参るのではございません。冷えた犬は、働きが鈍る。それだけのことにございます。
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その夜、寝床は、空いておりました。
毛布を置いて、下がろうといたしましたところへ、あの方が、外から戻ってまいりました。セドリック様にございます。番犬として置かれて、幾月か。夜更けに、持ち場を離れておいでであったわけにございます。
「……家令殿」
「左様でございますね」と、手前は申しました。何が左様なのか、手前にもわかりませぬが、四十年、この一言で、たいていの間は、持ちます。
あの方の手が、濡れて、土に汚れておりました。お庭の、東の隅。雨樋の詰まりが、明日の朝、ちょうどお嬢様のお部屋の窓の上で、溢れるところにございました。あの方は、それを、夜のうちに、ひとりで、さらえておいででした。誰にも告げず。明朝、お嬢様は、濡れぬ窓を、当たり前と思し召す。なぜ濡れなかったのか、お考えにもならぬ。——それでよい、という手つきにございました。
手前は、その手つきを、存じております。
四十年、毎晩、鏡で見てまいりました。
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お嬢様が、まだ八つでいらした頃のことにございます。
誰も褒めぬところで、お嬢様は、予定帳の余白に、先回りの注意書きを、お書き始めになりました。卵の白身がどう、長靴の踵がどう。あれを、隣で見ておったのは、手前にございます。どこで、あのような手つきを覚えられたのか、と、長いこと、思うておりました。
近頃、わかってまいりました。——もしや、お嬢様は、手前の背を、見ておられたのかもしれませぬ。手前が、誰にも告げず、礼も乞わず、屋敷の綻びを、夜のうちに繕うておったのを。八つの目で、黙って。
そして今、同じ手つきが、もう一つ、増えました。雨樋に手を入れて、何でもない顔で戻ってくる、この方の手に。
屋敷に、同じ手つきが、三代。教えた覚えは、ございません。教えられるものでも、ございませんでした。それは、習うものではなく、誰かの背を見て、勝手に、うつるものにございますゆえ。
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手前は、近頃、目が、霞みます。
今夜の雨樋も、手前は、気づいておりませんでした。四十年、手前が見落とさなかったものを、手前が、見落とす日が、近づいております。それは、道理にございます。道理にございますが、屋敷の綻びは、道理を待ってはくれませぬ。
——見落とさぬ目が、もう一対、屋敷にあること。それは、悪いことでは、ございません。
下がりぎわに、手前は、あの方に、一つだけ、事実を申し上げました。これまで、四十年、誰にも申し上げなかった事実にございます。
「玄関の、左手の棚。いちばん下の引き出しに、乾いた布が、一枚、入れてございます」
あの方が、顔を、お上げになりました。
「お嬢様は、お疲れの日の夜更けに、一度、ご自分のお部屋で、鏡をご覧になります。長く。亡き母君が、鏡の前でだけ泣け、とお言いつけになったそうにございます。——その時刻だけは、廊下を、誰も通してはなりませぬ。足音ひとつ、立てさせぬよう。あの布は、その夜のためのもの。濡れてもおられぬのに、濡れていない、と仰る朝のための布にございます。使う日は、ございません。使われぬまま、下げる布にございます」
なぜ、これを、この方に申すのか。手前の役は、事実を申し上げること。ですがこの事実は、お嬢様の、いちばん奥の引き出しのものにございました。それを今、番犬に、申しております。——帳簿の、どの頁にも、載らぬことにございます。
「どこにあるか、と。何のためか、と。それだけ、知っておいでなさい。使うのは、あなたではございません。——ですが、いつか、手前が、その時刻の廊下の足音を、止めきれなくなる夜が、参ります。その夜に、布の在り処を知っている者が、屋敷に一人。それで、よろしいのです」
あの方は、何も、お尋ねになりませんでした。なぜ、とも、誰のために、とも。ただ、深く、頭を、お下げになりました。弁明も、礼も、混ぜぬ、頭の下げ方にございました。事実を、事実のまま、受け取る者の。——筋は、悪くございません。
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手前は、寝床に、毛布を、もう一枚、足しました。
二枚までの契約は、とうに、超えております。超えたぶんは、手前の帳簿には、載せておりません。
戻る廊下は、冷えておりました。手前のあとに、お嬢様の、濡れぬ窓と、足音を止める夜と、引き出しの布とを、引き継ぐ者が——あの番犬の分際で——育ちつつあるようにございます。手前が、それを、この目の霞むうちに、見届けられたこと。四十年、長く勤めた甲斐は、そのあたりに、あったのかもしれませぬ。
「左様でございますね」
誰に言うでもなく、手前は、呟きました。
何が左様なのかは、いつものごとく、申しません。
申さずとも、もう一人、それで通じる者が、屋敷に増えたようにございますゆえ。




