番外編・ただ一度の私見
ベルクール侯爵が、手前を訪ねてまいりました。
お嬢様ではなく、手前を。——それが、侯爵様の最初の見立て違いにございました。
時は、お嬢様が高い座へ上られる、その瀬戸際にございます。女が冠を戴くなど前代未聞と、旧い家々が十一、寄り集まって、別の御輿を担ごうとしておりました。その筆頭が、ベルクール侯爵にございます。
侯爵様は、お嬢様に会いに来たのではございません。屋敷の勝手口に回り、四十年この家に仕える老いぼれを呼び出されました。賢い使用人なら、沈む船の見分けくらいつくはずだ、と。
「お前の主は、危ない橋を渡っておる。女の分際で、玉座をな。四十年の忠義は買うが、忠義で飯は食えん。乗り換える先を、世話してやってもよいぞ」
手前は、事実だけを申し上げました。
「お嬢様は本日、東方の使節と会談の予定にございます。侯爵様のお越しは、承っておりませんでした」
「とぼけるな。儂が何を言うておるか、わかっておろう」
「手前は、感想を申し上げる役ではございません」
侯爵様は鼻で笑われました。四十年、感想を言わぬ老僕など道具と同じだと、思し召したのでしょう。道具ならば、使い方次第でいくらでも寝返ると。
動かぬ手前を見て、侯爵様は別の口をお使いになりました。
「のう、老いぼれ。一つ教えてやろう。お前は四十年、この家に何を残した。名か。家か。土地か。——何も、あるまい。お前が死ねば、半年もせぬうちに、お前がここにいたことなど、誰も覚えておらん。『家令』と呼ばれて、『家令』のまま、土に還る。名すら覚えてもらえなんだ、空っぽの一生だ。——その空っぽを、最後くらい、銭に換えてみたらどうだ。それが、名無しの老僕に残された、ただ一つの賢い始末よ」
手前はしばらく、盆の上の冷めかけた茶を見ておりました。
侯爵様の言葉は、半分は事実にございました。手前に、名はございません。お嬢様は、八つの頃から本日まで、ただの一度も、手前の名をお呼びになりませんでした。手前が死ねば、忘れられるのも道理にございましょう。そこまでは、侯爵様のお見立てのとおりにございます。
手前は、顔を上げました。
「半分は、仰せのとおりにございます。手前に、名はございません。——ですが侯爵様、一つだけお直しください。手前は、名を奪われたのではございません。要らぬと、自分で下ろしたのでございます」
「……何だと」
「名を残す者は、名のために働きます。己の名が上がるように、己の家が栄えるように。——名を持たぬ者だけが、ただ主のためにだけ、働けるのでございます。手前は四十年、ただの一度も、己の名のために手を動かしたことがございません。そんな贅沢な一生を送れる者は、そう多くはございません。侯爵様は、ご生涯、ご自分の名のためにお働きでしたろう。手前は、その重荷を、生涯負わずに済みました。——どちらが豊かな一生かは、お測りになる物差し次第にございます。手前は、手前の物差しで、満ち足りております。空っぽどころか、あふれておりますくらいで」
侯爵様の顔から、笑みが引きました。名という餌も、忘却という鞭も、名を持たぬ男には掛かりませんので。勘定の合わぬ、お顔でした。
だから侯爵様は、最後の一枚をお切りになりました。
「ならば、その満ち足りた一生とやらを捧げた先が、女の分際で玉座を望む、器でもない女とは、いっそ哀れな話よ。血も知らぬ。玉璽の重みも知らぬ。所詮は、気の利く女中が、分不相応な椅子を欲しがっておるだけ。お前とて、四十年も見てきたなら、薄々わかっておろう」
手前は、盆を置きました。
「侯爵様」
声は荒らげておりません。荒らげる必要が、ございませんので。
「手前は四十年、この家で、感想を申し上げぬことで給金を頂戴してまいりました。意見を述べる口は、手前のほかにいくらでもございましたゆえ。——ですが、本日、一度だけ。一度だけ、お暇を頂戴いたします」
侯爵様の眉が、動きました。
「お嬢様が器でない、と仰せられた。では侯爵様は、器を何でお測りになりますか。血で。玉璽の重みで。お生まれで。——手前は四十年、別のもので測ってまいりました。夜にございます。お嬢様は、八つの頃から、誰にも数えられぬ夜を、国のために起きておいででした。誰も褒めぬ。誰も知らぬ。礼状の一枚も出ぬ。そういう夜を、十年。手前は、その灯りを、毎晩、隣の部屋から見ておりました。——侯爵様。失礼ながら、お尋ね申し上げます。あなた様が、その同じ夜々に何をしておいでであったかは、手前、存じ上げております。この家の勝手口には、四十年、いろいろな噂が出入りいたしますゆえ」
侯爵様の顔色が、変わりました。
「血で玉座を語られるお方が、夜の働きでは、お嬢様のお部屋の燭台一つにも及んでおられませぬ。器とは、生まれつき備わっているものではございません。誰も見ておらぬ夜に、何をしたかの積み上げにございます。お嬢様の器は、八つの頃からの夜が、そっくり、この屋敷に積んでございます。手前が四十年、この屋敷で見てまいった中に、これに並ぶ器は、ついぞございませんでした。——侯爵様の器のほうは、手前、まだ探しております」
侯爵様は、何か仰せられようとして、その口が動きませんでした。
手前は、盆を取り上げました。
「この話をどう使うかは、手前の役ではございません。手前は、ただ一度きりの私見を申し上げただけ。——侯爵様。ただいま手前に仰せられたことを、お嬢様の御前で、あの灰青の目の前で、もう一度仰れますか。仰れぬのであれば、それが答えにございます。手前の口など、借りるまでもなく」
侯爵様は、勝手口からお帰りになりました。来たときより、ずいぶん足が速うございました。
*
手前は、冷めた茶を下げました。
「……左様でございますね」
誰に言うでもなく、呟きました。四十年で、初めての私見にございました。喉の奥に、慣れぬことをした痛みのような、妙な心地がございます。二度目は、おそらくございますまい。お嬢様の器を、もう一度、誰かが面と向かって疑うことでもあれば、別にございますが。
一度で、足りました。
手前は、また事実だけを運ぶ役へ戻ります。本日の私見は、帳簿には載せておきません。——感想の費目は、この家にございませんので。




