番外編・家令四十年 申し上げぬ事実
手前は、四十年、事実だけを申し上げてまいりました。
意見は、申しません。感想を申し上げる役は、手前のほかに、いくらでもおりましたゆえ。ヴァルモンテ家には、よく回る舌が、いつの世も足りておりました。足りておらぬのは、いつも、黙って事実を運ぶ者のほうにございます。手前は、そちらを選びました。給金は、感想を言わぬぶん、いくらか上がります。——いえ。これは、手前の冗談にございます。手前の冗談は、四十年で三度ほど。本日が、四度目になりますか。
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その晩も、手前は、最悪の時機に、事実を申し上げました。
夕餉の席にございます。お嬢様が、匙を取られた、ちょうどそのとき。手前は、王家との慰謝交渉の、芳しからぬ報せを、申し上げました。
「あなた、それを今言う必要があった?」
「ございません」と、手前は答えます。「ですが——旦那様より、お嬢様の食欲を確認せよ、と。……いえ。手前が、確認しとうございましたので」
事実にございます。悪い報せは、人が何かを口に運ぶ、まさにその折に、申し上げるものにございます。押し返す相手が目の前にあると、人は、不思議と、喉が通る。怒りは、いちばん安い食前酒にございます。——そしてその晩、お嬢様が、ちゃんと召し上がるかどうかを、手前は、見ておきとうございました。
お嬢様は、手前を一度睨まれて、それから、おかわりを所望されました。
「よろしい傾向でございます」と、手前は申しました。
お嬢様は、手前が何を確認したのか、お気づきにはなりません。それでよろしい。気づかれては、これは「気遣い」という名の品物に変わります。名の付いた品物には、礼を申し上げねばなりません。礼を申し上げれば、お嬢様は、何かを返そうとなさる。お嬢様は、そういうお方にございます。返させては、ならぬのです。だから手前は、ただの無神経な報告として、それを済ませます。手前の無神経は、四十年、丹念に磨いた無神経にございます。
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その晩、見習いの侍女が一人、手前に意見を求めました。屋敷へ入って、まだ十日ほどの娘にございます。旦那様の交渉について、家令はどう思うか、と。
手前は、事実だけを返しました。第七稿が突き返されたこと。王家の使者が、これで四人替わったこと。それだけにございます。
「家令様は、どうお考えなのですか」
「手前は、感想を申し上げる役ではございません」
侍女は、つまらなそうな顔をいたしました。よろしいのです。手前の役は、つまらぬ顔をされることにございます。——ただ、手前は、その二つの事実を、順番を選んで並べました。突き返された第七稿、を先に。替わった四人の使者、を後に。その順で聞けば、旦那様が押されているのではなく、王家のほうが崩れているのだ、と、同じ卓の端で匙を止めておられたお嬢様に、伝わります。手前は、意見を申しません。事実の、並べ方だけを、選びます。——後になって、気づきました。お嬢様が、晩餐の席次を、同じ手つきで組まれるということに。どちらが、どちらに似たのかは、存じません。存じませんが、似ております。
その娘は、聞き取った事実を、覚え書きに写しておりました。お嬢様にお渡しする、控えにございます。写し終え、まだ手の慣れぬ筆を止めて、娘は、手前に尋ねました。
「この報せは、どなたからと、書き留めればよろしいでしょう。……わたくし、まだ日が浅く、家令様のお名前を、存じませんでした」
入って十日の娘にございます。手前の名を知らぬのも、道理にございました。
手前は、答えました。
「『家令より』と。それで、足ります」
娘は、はあ、という顔で、そのように書きました。それでよろしいのです。——お嬢様もまた、ただの一度も、手前の名を、お尋ねになりませんでした。八つでいらした頃から、四十一の本日まで。「家令」と、お呼びになる。それで、すべて、通じました。名を覚えていただかねば回らぬ用は、まだ、半人前の用にございます。名を忘れていただいて、なお滞りなく回る屋敷。それが、家令の、行き着く先にございます。
そして、お嬢様もまた、ご自分の名を、惜しまれぬお方にございます。あれほど国を繰っておきながら、その働きに、誰にも名を付けさせなかった。「よく気がつく妃」の一言で、十年を、残高ゼロに精算されて、なお、お黙りでした。——名を付けさせぬ者どうし。手前とお嬢様は、その一点で、親子よりも、似ているのかもしれません。
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手前には、四十年、ただの一度も申し上げなかった事実が、一つございます。
お嬢様は、得がたいお方である、という事実にございます。
これだけは、申し上げられません。手前が、その一言を口にした瞬間、お嬢様の値打ちは、「家令が、そう申した」という、名の付いた勘定に変わります。名が付けば、精算が始まります。礼を言われ、釣りが出され、いつか、帳尻が、合ってしまう。合ってしまえば、残高はゼロにございます。世間が、十年かけて、お嬢様にしたことと、同じにございます。
手前は、それを、させませぬ。
お嬢様の値打ちを、名づけず、請求書にせず、ただの一度も口にせず、四十年。名づけねば、精算できませぬ。精算できぬ債権だけが、いつまでも、利息を生んで、残ります。——それが、手前にお返しできる、ただ一つの利息にございます。
「お嬢様は、得がたいお方でございます」と、手前が申し上げる日は、おそらく、来ぬまま終わります。
それで、よろしいのです。言わぬことが、唯一、精算されずに残る、手前の、申し送りにございますゆえ。
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廊下で、お嬢様とすれ違いました。お嬢様は、本日の交渉について、何か仰せになりかけて、おやめになりました。手前の顔を、ご覧になったのでしょう。
手前は、いつものように、一礼して、いつもの一言を、申し上げました。
「左様でございますね」
何が左様なのかは、申しません。
申さずとも、四十年、それで、通じてまいりましたゆえ。




