番外編・褒められ待ちの犬
戴冠から三月もすれば、私の治世を快く思わぬ者の数も、だいたい出そろう。
その朝、城下に一枚の怪文書が出回りかけた。女が戴いた冠に正統はない、という、手垢のついた文句である。出回りかけた、と過去形で言えるのは、出回る前に、それが止まったからだ。
止めた者が、報告に来た。
「処理しました」と、犬は言った。「刷った版木と、刷った男と、刷らせた家の名。三つとも、押さえてあります。出回った写しは、七枚で止めました」
「家の名は」
「ベルクール侯の、遠縁です」
——退去させたはずの家が、まだ根を残していたらしい。けれど、根は一日で抜かれた。写しが七枚で止まったということは、この男は、刷られるより前から、刷る側の手の動きを見ていた、ということだ。先回りである。十年、変わらない。
「上出来だ」と、言ってやってもよかった。
言わなかった。
*
なぜなら、この男が、あまりにもあからさまに、待っていたからだ。
報告を終えた番犬は、退室の礼をする気配もなく、その場に控えていた。背筋は伸び、表情は神妙。けれど、その目だけが——褒められるのを、待っていた。尻尾があれば、床を打って待っていただろう。
私は羽根ペンを取り、次の決裁書へ目を落とした。
「御用が、ほかにございますか」と、彼は健気にも、自分からは催促しない。ただ、いつまでも、控えている。
待っているとわかっていて待たせるのは、性格が悪い。わかっている。けれど、帳簿の人間というのは、入ってきた利息を、すぐには払い出さないものだ。寝かせるほど、利が乗る。
たっぷり寝かせてから、私は言った。
「及第点よ」
彼の背筋が、わずかに——ほんの、わずかに——下がった。落胆を見せまいとして、見せた。それから、何事もなかったように、また伸びた。よくできました、ではなかったことに、この男は気づいている。気づいていて、それでも、その三文字を、両手で受け取るように受け取った。
「ありがたきお言葉です」
「言葉に重みはない。干し肉一束ぶんだ」
「では、その干し肉一束を、生涯の蓄えにいたします」
——こういうことを、真顔で言う。打算で言っているのか、本心なのか、私には、見極められなかった。査定する側の私が、たった一言の値踏みに、手を止めた。
その一瞬、私は、胸の内で、この男を、名で呼んでいた。犬でも、殿下でもなく——セドリック、と。呼んでしまってから、気づいた。気づいて、扇を閉じた。
たったそれだけのことが、なんだか少し、負けたようで、悔しかった。
*
退室の前に、彼は、懐から薄い帳面を取り出した。
例の手帳だ。「いただいた御言葉」と、拙い字で表紙にある。彼は、その日に私が落とした言葉を、一つずつ書き写す。十年、欠かさず。
彼は、ちらと一度、廊下の灯を確かめ、それから、新しい一行を書き足した。今日の分。「及第点」と、書いたのだろう。賞賛ですらない一語を、宝石でも綴じるように、丁寧に綴じた。
私は決裁書から目を上げず、横目だけで、それを見ていた。見ていることは、悟られないように。——彼が知らないことが、一つだけある。先夜、私は、その帳面を、最後の一頁まで読んでしまった。読んだとは、言っていない。
だから、いま、こっそり盗み見ているのは、彼の手帳ではない。彼が、その手帳を、どんな顔で綴じるか、のほうだ。二冊の帳簿は、いまも、彼の知らないところで、そっと突き合わされている。
*
「お嬢様」
声がした。人払いをしたはずの部屋に、命じられぬ先に入ってくる者が、この屋敷には一人いる。盆に、湯気の立つ碗を一つ。名を訊いたことのない、老家令だった。
家令は、廊下へ去っていく番犬の背を、しばらく見送ってから、ぽつりと言った。
「あの番犬殿は、お言葉を、ずいぶんと長く、お待ちのご様子で」
「待たせている。わたくしが」
「左様でございますか」家令は碗を置いた。「……差し出口にございますが。先回りをする者は、礼を、待ってはなりませぬ。待った時点で、それは、もう先回りではなくなりますゆえ」
四十年、この屋敷で礼を言われぬ仕事を、報告もせずに積んできた男の言葉だった。
「家令」と私は言った。「それは、あの犬への忠告? それとも——昔、誰かに言いそびれた、お前自身の?」
家令は、答えなかった。答えない代わりに、もう一礼して、出ていった。四十年ぶんの沈黙が、廊下に、長く尾を引いた。
この屋敷の男は、揃いも揃って、肝心の一言を、しまい込む癖がある。誰に似たのか、とは、訊かないでおく。
*
その夜、私は一人、執務室に残った。
明日になったら、あの男を呼ぼう。呼んで、何と言うか。——いや、何と言うかは、本当は、もう決まっている。
いちばん高い棚の、鍵のかかった抽斗。そこに、ずっと、しまってある一言。家令の言うとおりだ。待たせるほど、それは、ただの意地になっていく。
「よく」まで、口が動いた。誰もいない部屋で。「よくで——」
その瞬間、玉座の上から、決裁書の束が、ばさりと落ちた。
猫である。陛下が、肘掛けの上で寝返りを打ち、書類をひと山、床へ払い落としたのだ。陛下は散らばった紙を一瞥し、それで満足したのか、また目を閉じた。——仕事を増やすことにかけては、この屋敷で、誰より一流である。
口に出かかった一言は、書類の山に押し戻された。
それでいい、と思った。あの言葉は、まだ言わない。あれは、いちばん高い棚に、鍵を掛けて取ってある。あの男が一生かけて待つというのなら、私も、もう少しだけ、寝かせておく。利息は、その間も、ちゃんと付いているのだから。
散らばった書類を拾いながら、私は、ほんの少しだけ、笑った。
明日、あの男を呼ぼう。呼んで、また「及第点」と言ってやる。彼はまた一行、帳面を増やすだろう。私は、また横目で、それを盗み見る。二冊の帳簿は、こうして、突き合わされないまま、何十年でも、そっと隣を走り続ける。——鍵のかかった一言が、いつか抽斗を出る、その日まで。
それは、まだ、今日ではない。




