番外編・番犬
グランヴィル侯爵は、供も連れずに、わざわざ足を運んできた。
ヴァルモンテ邸の裏手、番犬の持ち場である門番小屋の前まで。落ちぶれた元主君を、自分の目で見て笑いに来たのだ。セドリック・ヴェルダンテは、外套の肩に土をつけたまま、膝をついて迎えた。番犬の礼である。
「これはこれは。殿下」
侯爵は、その称号を舌の上で転がすように使った。かつて、この男はセドリックの右隣に立っていた。側近筆頭として。セドリックが落ちた日、最も速く手のひらを返したのも、この男だった。返す速さだけは、見事だった。
「落ちぶれた末に、令嬢の飼い犬とは。芸達者になられた」
「……仰せのとおりにございます」
自分への嘲りは、餌のうちだ。番犬は、石を投げられて吠えはしない。吠える犬は、躾がなっていない。
だが、侯爵の狙いは嘲りではなかった。
「のう、殿下。一つ教えてやろう。——お前のしておるのは、忠義ではない。命乞いだ」
セドリックは答えなかった。
「お前は、あの女の十年を踏みにじった。完璧すぎる、と言うて、人前で放り出した。あの女がどれだけの恥をかいて国を出たか、お前は知るまい。その償いのつもりで、今、尻尾を振っておる。——だがな、いくら振っても許されはせん。あの女は、一生、お前を許さん。お前自身が、いちばんわかっておろう。許されぬ犬が、許しを乞うて足元を這う。あの女はそれを、捨てもせず飼うておる。なぜか、わかるか。——這う元王太子を、毎日見物するためよ。お前の忠義は、あの女のいちばん安い、娯楽だ」
雨の音が聞こえた気がした。三年前の、門前の雨だ。
侯爵の言葉は、半分は正しかった。許されぬことは知っている。乞うつもりもない。乞えば、あの方はまた何かを差し出してしまう。だから乞わない。そこまでは、三年前に雨の中で決めたことだ。だが「娯楽」の二文字だけは、初めて突きつけられた。あの方が、自分を見世物として飼っている。その絵を、侯爵は丁寧に描いてみせた。
セドリックはしばらく、膝の上の自分の手を見ていた。荷役で擦れ、ペン胼胝の残る手を。
それから、顔を上げた。
「半分は、仰せのとおりです」
声は静かだった。
「私は、あの方を踏みにじった。許されぬことも存じております。——ですが侯爵、一つだけ見立てをお直しください。私は、許されるために仕えているのではございません」
「……何だと」
「許しを目当てに仕える者は、許しが来ぬと知れば手を止めます。私は止めません。許されようとされまいと、あの方の命じることを果たす。それだけです。報酬は、はじめから勘定に入れておりません。——三年前、門前の雨の中で、私は自分の手で、すべてを台の上から下ろしました。爵位も。誇りも。いつか許される、という望みも」
セドリックは立ち上がった。
「おわかりですか、侯爵。あなたは人を動かすのに、餌か鞭しかお持ちでない。許しという餌、恥という鞭。——そのどちらも、私にはもう効きません。望むものが何もない男は釣れない。脅すものが何もない男は屈まない。あなたがたが人を落とそうとする、いちばん底に、私はとうに自分の足で降りております。底へ突き落とすぞと凄まれても、もう、おりますので。ここに」
侯爵の顔から、笑みが消えていた。手駒を二枚とも空振りした男の顔だった。餌も鞭も、宙を切った。
だから侯爵は、最後の一枚を切った。手元に残った、いちばん下品な札を。
「……ならば、せいぜいその底で、主と一緒に沈むがいい。あの女も、じきに終わる。密通の汚名でな。——所詮、安い女だ。一人沈めるのに、たいした銭も要ら——」
「——四百五十金貨」
侯爵の言葉が止まった。
セドリックの声から、敬語が落ちていた。
「仲介人への報酬。商会名義で、三度の分割。登記人はお前の遠縁。刷り元は旧貴族派の所領の印刷所。二度目の原資は、お前の家の山林売却益の端数だ。——安い、と言ったな。私は、その端数の一金貨まで数えてある」
温度が下がっていく。膝は、もうついていない。頭を垂れることをやめた男の背筋だった。どんな侮辱にも、自分の罪のどんな名指しにも、一度も外れなかった首の鎖が、あの方の名に「安い」とついた、その一言で外れていた。自分の手の意思を待たずに。
「私を、いくら罵ってもいい。許されぬ犬だと、見世物だと、何とでも。それは当たっている。——だが、あの方を安い、と言ったな。それが、お前が本日口にした中で、ただ一つの間違いだ」
セドリックは、それ以上近づかなかった。近づく必要がなかった。代わりに、ゆっくりと膝をつき直した。さっき自分で捨てた、番犬の姿勢に。自分の意思で。声に、敬語が戻った。外したものを、自分の手で着け直すように。
「——ですが、この刃は私が振るものではございません。私が握った端数は、あの方の戦の弾にございます。番犬は、獲物を主の前に運ぶまでが役目。噛むかどうかをお決めになるのは、あの方です。……侯爵。せいぜい夜会までに、否定の声明をご用意なさいませ。否定は、宣伝にしかなりませんが」
侯爵は答えなかった。答える言葉を持っていなかった。供も連れずに来た道を、来たときよりずっと速い足で帰っていった。沈む船から降りる足の速さだけは、この種の男たちは、本当に鍛え方が違う。
*
門番小屋の前に、セドリックは一人、残った。
奇妙だった。侯爵は、彼の罪を的確に抉った。許されぬこと。乞うても無駄なこと。見世物にされているかもしれぬこと。——そのどれもが、彼の鎖を一度も外せなかった。底へ降りた男には効かない。望みも誇りも、とうに自分の手で下ろしたからだ。
外れたのは、たった一言。あの方の名に「安い」とついた、その時だけだった。
何もかも台の上から下ろしたはずだった。残ったのは、果たすことだけのはずだった。だが、一つ、下ろし忘れたものがあったらしい。いちばん底まで降りて、なお手放せていなかったものが。
帳簿外。
その費目の名を、番犬の分際で口にしてよいはずがない。
彼は、また門のほうを向いて座り直した。主が、じき帰ってくる。獲物は運んだ。あとは、待て、の姿勢で待つだけだ。——よくできた、番犬として。




