番外編・猫陛下観察記② 朕の留守
皇帝は、時に、姿を消すものである。
臣下の本性は、主が見ておるあいだは、決して表に出ぬ。見られておると知れば、誰もが正しく振る舞う。正しい振る舞いなど、見たところで査定の役には立たぬ。本性は、主がおらぬと思うたときにだけ、こぼれる。だから朕は、消えてやることにした。
朕の屋敷には、御座所が五箇所ある——と、下々は思うておる。違う。六箇所目がある。屋根じゃ。書庫の天窓から庇へ抜け、瓦をひとつ伝うた先の、雨樋の付け根。そこは朕しか知らぬ。空が近く、庭が一望でき、何より、誰の手も届かぬ。皇帝の御座所として、申し分ない。
朕は、誰にも告げず、そこへ上がった。そうして、下界が騒ぎ出すのを、待った。
*
日が傾く頃、最初に異変に気づいたのは、女官であった。
朕の夕の干し魚が、手つかずで残っておる。それを侍女が報せたらしい。常の女官であれば、ここで「では下げなさい」と言うて済む。陛下は気まぐれゆえ、と費目に立てて、帳尻を合わせて終わる。あの女は、何でも費目に立てる。婚約破棄も、亡命も、求婚の山も、薪一束と書いて燃やしてきた女じゃ。
ところが今日は、違うた。
女官は、立ち上がった。扇を、卓に置き忘れたまま。
「庭を、見てまいります」
侍女に命じるのではない。自分で、見にゆくと言うた。朕は屋根の上で、片耳を立てた。ほう。あの女、朕を費目にできずにおる。**朕には、値が付けられぬらしい。**
考えてみれば、道理じゃ。あの女が王宮の温室裏で、誰にも言えぬことを言うておった三年、聞いてやったのは朕だけである。鎧の継ぎ目を、三歩ぶんの日陰で外すのを、許してやったのは朕だけである。皆が席を立ち、招待状が紙切れになり、夫人たちが潮のように引いていったあの頃も、前庭を半分走って馬車に並んだのは、朕じゃ。——そういう類いの貸しには、値が付かぬ。付けられぬから、費目に立たぬ。費目に立たぬから、あの女は、扇を忘れる。
庭は、もう暗い。女官の「わたくし」の声が、いつもより半音、据わっておらぬのが、屋根の上まで届いた。
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次に動いたのは、犬じゃ。
断っておくが、あの犬は、朕を案じて動いたのではない。
犬は、女官が扇を忘れて庭へ出たのを、見た。据わらぬ声を、聞いた。それで動いた。つまりあの犬が放っておけぬのは、朕の不在ではない。**女官の、平静のほうじゃ**。番犬の分際で、皇帝より、皇帝の女官を案じおる。不敬な。不敬じゃが——まあ、正しい不敬ではある。
犬は、騒がなんだ。大声で人を呼び集めて、屋敷じゅうを引っくり返す、という探し方をせなんだ。それをすれば、女官が人前で取り乱す羽目になる。代わりに犬は、庭番に松明の位置だけを静かに指図し、捜す手を、女官の目の届かぬ外周へ回した。女官が一人で静かに庭を見て回れるよう、人の気配を、そっと遠ざけた。
捜索の差配を、女官に気取られぬように差配しておる。報われぬ手つきじゃ。いつものことじゃ。
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暗い茂みの前で、二人が、鉢合わせた。
女官は、髪が一筋、額に落ちておった。あの女にしては、ありえぬ乱れじゃ。鏡の前でだけ泣け、と母御に躾けられた女が、いま鏡もないところで、泣いてはおらぬが、泣く一歩手前の顔をしておった。朕を呼ぶ声が、もう「陛下」ではなく、ただの呼び声になっておった。位も敬称も剥がれた、素の声で、あの女は朕を呼んでおった。
犬は、その顔を、見た。
見て——**見なかったことにした。**
「あちらは、もう探しました」
犬は、嘘をついた。探してなどおらぬ方角を、探したと言うた。女官に、顔を伏せる数秒を、作ってやったのじゃ。お前は向こうを見るな、こちらはもう済んだ、と。そう言うあいだに、女官は髪を直し、息を一つ整え、「わたくし」の声を、手の内に取り戻した。取り戻してから、顔を上げた。
犬は、その数秒のあいだ、女官のほうを見なかった。乱れた女を見つめて値を上げる、という下品を、せなんだ。ただ、暗い茂みの方を、何でもない顔で見ておった。
朕は、屋根の上で、目を細めた。
あの犬、鏡の役をしおった。
母御の形見の、あの小さな鏡。誰にも言いつけぬ、泣き顔をいちばん先に整え直してやる、あの鏡。あれと同じ役を、犬が、肩代わりして差し出しおった。誰にも頼まれず、礼も乞わず、何でもない顔で。——三年前、温室裏で朕がやっておった役を、いつのまにか、もう一匹がやれるようになっておる。
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下界がそれだけ騒いでおるあいだ、ただ一人、慌てておらぬ者がおった。
家令じゃ。
老いた家令は、庭を見もせず、厨房で茶を淹れ直しておった。すれ違いざま、女官が「陛下が」と言いかけると、老人は碗を整えながら、こう申した。
「左様でございますね。陛下は、お戻りになります。お腹が空けば、必ず。——干し魚を、温めておきましょう」
朕と家令は、互いの手の内を知っておる。あの老人は、朕が迷子になる柄ではないことを、四十年で承知しておる。そして朕は、あの老人が、承知した上で黙っておることを、承知しておる。屋敷に、そういう目が、二つ。いや、今日で、三つになったらしい。
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頃合いである。
朕は、屋根を降りた。書庫の天窓から庇を伝い、誰の手も届かぬ高さの塀の上に、当然の顔で着地した。女官が、それに気づいて、足を止めた。
「……陛下」
声が、戻っておった。「わたくし」の鎧も、敬称も、きちんと戻っておった。よろしい。素を見られたことを、この女は認めぬ。認めぬのが、この女じゃ。朕も、見たとは言わぬ。皇帝は、臣下の素を、いちいち言い立てぬ。
犬が、一礼した。塀の上の朕に、手を伸ばしはせぬ。降ろしてやろう、などという無礼も、働かぬ。間合いを、心得ておる。朕は、犬の差し出さぬ手を、よしとした。今日のところは。
朕は、迷うてなど、おらぬ。迷うのは、下々のすることじゃ。朕はただ、上から、見ておっただけである。
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塀の上から、朕は、暗い庭を見渡した。
皇帝とて、永遠ではない。屋根の上から、あの女を見張る役を——誰も見放したあの女の、誰にも数えられぬ夜を見張る役を——朕は、いつか、誰かに譲らねばならぬ。それが獣の理じゃ。
当面は、朕がやる。朕の目が黒いうちは、朕の御座所じゃ。
だが、当面の先のことも、考えておくのが、皇帝というものじゃ。
——あの犬。鏡の役の、見習いとしては。まあ、悪くない。
塀を降り、朕は温めなおされた干し魚の方へ、ゆるりと歩いた。今日はよく見物した。見物のあとの飯は、格別に旨い。
女官が、朕の後を、三歩ぶん離れて、ついてきた。最後まで、抱き上げはせぬ。それでよい。朕とあの女の間合いは、三年かけて決めた、三歩じゃ。詰めも、離れも、せぬ。
その三歩を、いつか、もう一匹が——いや。
それは、まだ、朕の関知するところではない。




