番外編・犬の手記④ 尾は、ないはずだった
採点の朝、書斎には三人と一匹がいた。
採点する者。立会いの老家令。窓辺で前脚を几帳面に折り畳んだ、検分官の顔の猫。そして、採点される犬が一匹。
セドリック・ヴェルダンテは扉の手前で膝をつき、採点表の束を待っていた。背筋は伸び、手は膝の上、目だけが机の紙束を追っている。餌の皿を待つ犬の姿勢だ。自分でもそう見えているだろうことは分かっていたが、直しようがなかった。待て、を命じられた犬に、できることは一つしかない。待つことだ。
ロゼリアが紙束を机に置いた。重さは昨夜と同じはずなのに、置いた音だけが妙に大きく聞こえた。
「採点を申し渡します」
「はい」
「設問のうち、九割、正答。数字の読み違いが二箇所——減点」
「はい」
頷きは早かった。誤りの場所は、提出した晩にもう気づいていた。気づいて、書き直しを願い出なかった。願い出れば心証は買えたが、買わなかった。減点は、正しく受け取るためにある。
そして、減点は痛くなかった。
セドリックは減点の二語を、背筋ひとつ動かさずに受けた。これは得意だった。叱責を無表情で受けるのは、十年やってきたことだ。婚約を切られた春も、臣籍に降りた冬も、彼の顔は動かなかった。動かさない訓練だけは、王宮が彼に残した、数少ない財産だった。痛みには、強い。痛みは、顔に出さずに済む。
問題は、その次だった。
「ただし、三枚目。借りの肩代わりとして書き直した一節——これは、認めます」
「……はい」
「総合して——及第点です」
及第点。
たった二語だった。減価償却の済んだ外套一着より、軽い音だった。その二語で、十年の訓練が、初めて持ち場を放棄した。
背筋は、保った。手も、膝の上で保った。顔も——たぶん、保った。だが、どこか、名前のつかない一箇所が、敬語の角を一つも崩さないまま、確かに動いた。人に、尾はない。ないはずのものが、振れた。一度。
抑えろ。喜ぶな。喜べば、これは報酬を待つ仕事に変わる。報われない仕事を報われないままやれるかが、査定の——
「振るんじゃありません」
ロゼリアが言った。
彼は動いていなかった。指一本、爪先一つ、動かしていない。にもかかわらず、彼女にはそれが見えたらしい。ありもしない尾が、ありもしない速さで、一度、振れたのが。
「……振っておりません」
「目が、振っておりますわ」
灰青の目が、まっすぐに彼の目の奥を指していた。逃げ場のない指し方だった。彼は目を伏せた。伏せたが、伏せたことが、また一つの証拠になった。伏せる前に、ほんの一瞬、奥が明るくなったのを、彼女はもう見てしまったあとだった。
窓辺で、検分官が、ふん、と鼻を鳴らした。
灰色の縞の尾が、一度だけ、ゆっくりと揺れる。甘いぞ、と琥珀の目が言っていた。本物の尾を持つ者の、余裕のある揺らし方だった。持たざる者が必死で抑えているそばで、持つ者が見せつけるように一振りする。格が違った。尾の年季が違った。
立会いの家令は、何も言わなかった。
ただ、長年この屋敷に仕えてきた眉が、ほんの少しだけ持ち上がり、すぐ元の位置へ戻った。それから老人は、誰に向けるでもなく、低く呟いた。
「……左様でございますね」
何が左様なのか、誰も問わなかった。問えば、藪から尾が出る。
セドリックは床に頭を下げた。下げれば、少なくとも目の奥は隠せる。隠してから、彼は全身の訓練を総動員して、名前のつかない一箇所を、もう一度、抑えにかかった。婚約破棄に耐えた背筋で。臣籍降下に耐えた喉で。門前の三晩を耐えた膝で。彼の持てる克己のすべてを注いで、たった二語ぶんの喜びを、押し戻そうとした。
押し戻しきれた、とは言えなかった。
「殿下」
頭の上から、声が降ってきた。失った称号で呼ばれた。首輪を一度、軽く引かれた音だった。
「はい」
「誇るのは早いですわ。本日の及第点は、本日限り。明日になれば、また査定はゼロから始まりますの。一日分の合格で、犬が図に乗るようでは、躾が足りていないということになりますわね」
「……心得ます」
「よろしい。お下がりなさい」
セドリックは立ち上がり、一礼して、扉へ向かった。背筋は、戻った。手も、顔も、戻った。退室の三歩は、定規で測ったように正確だった。誰が見ても、非の打ちどころのない番犬の退き方だった。
扉が閉まる、その最後の半歩で。
彼の踵が、ほんのわずか、軽かった。床を蹴る音が、入ってきたときより、いくらか弾んでいた。
それを、書斎の三人と一匹は、全員が聞いた。全員が、聞かなかった顔をした。
廊下に出て、扉を背にして、セドリックは短く息を吐いた。冷えた廊下の空気が、火照った喉を通っていく。十年、王宮が叩き込んだ無表情は、叱責には一度も負けなかった。婚約破棄にも、臣籍降下にも、雨の三晩にも、負けなかった。
それが、たった二語の褒め言葉に、今日、初めて負けた。
痛みには、強い男だった。報われることに、これほど弱いとは、彼自身、今日まで知らなかった。知ってしまった以上、これは厄介な弱点だった。査定はまだ続く。明日も、明後日も、彼女は二語ずつ、彼の無表情を切り崩しにくるだろう。
廊下の窓の外で、いつのまにか先回りした灰色の縞が、軒の上から彼を見下ろしていた。本物の尾が、退屈そうに一度揺れる。
「……あなたには、敵いません」
呟くと、猫は興味を失って、屋根の向こうへ消えた。返事はない。それでいい。本物の尾を持つ先達は、新参の犬の弱点など、とうに見抜いている。見抜いた上で、言いつけはしない。この屋敷の生き物は、どうやら揃って、口が堅いのだった。




