番外編・リュシー いちばん高い棚
帝都を出る前に、一度だけ、ロゼリア様にお会いした。
詫びじゃない。詫びは、受け取ってもらえない。あの人は、礼も詫びも、費目の合わない品物みたいに、棚に戻してしまう人だから。
わたしが渡しに行ったのは、もっと、ずるいものだ。あの人が、見られなかったもの。——あの人は、自分の勝ち戦を、まだ一度も、見ていない。
*
「お預かりの件でしたら、メルロー嬢。礼には、及びませんわ」
座らせてもらえないまま、わたしは切り出した。
「あなたが、出ていったあとの王宮の話を、しに来ました」
ペンが、止まった。
「結構ですわ」声は、平らだった。「あの国は、もう、わたくしの帳簿には、ございません」
「知っています。だから、わたしが、持ってきたんです。あなたが帳簿から外したところで——起きたことは、起きたので」
「メルロー嬢」あの人が、初めて、顔を上げた。「その話を、わたくしが聞きたがっていると、本気で?」
「いいえ。聞きたくない、お顔です」わたしは、退かなかった。「だから、話します。聞きたくないことの中にしか、本当のことは、ないので」
*
「最初の晩餐会で、大使が、席を立ちました。料理に、手もつけずに」
「……席次の不手際など、どこにでも」
「あなたなら、しなかった席です。睨み合う二家門を、隣同士に。あなたがいた頃は、一度も、なかった」
「もう、結構と——」
「セドリック様は、笑っていらっしゃいました」
その名前で、あの人の言葉が、切れた。
「何が起きたか、わからなくて。場を温めようと、関税の話を、ご自分から。南の伯爵様に。——あなたが、十年、出させなかった話を」
「……おやめなさい」
声が、低くなった。初めて、低くなった。
「やめません。あの人の周りの、あたたかさ。あれ、あなたが、毎朝、窓を開けて、入れていた空気でした。あなたが出て、窓を開ける人が消えて、部屋は、すぐに、冷えた。あの人には、温める術が、何も——」
「いい加減に、なさい!」
ぴしゃり、と来た。
初めて見た。ロゼリア様が、声を、荒らげた。灰青の目が、まっすぐ、わたしを射ていた。わたくし、の鎧の、継ぎ目が、一瞬、ほどけて見えた。
——よかった。
「……怒って、くださった」わたしは、息を、吐いた。「よかった。あなたが、ちゃんと、怒れる人で」
「何が、言いたいの」
「あなた、ぜんぶ、帳簿にするでしょう。痛かったことまで。費目をつけて、棚に仕舞って。『回収不能債権』とでも、書いて。——痛い、って、認めないために」
あの人は、答えなかった。
「そんなに固く、蓋をするのは。それが、いちばん、痛かったからですよね。いらないものなら、そんなに固く、閉じなくて、いいんです。あなた、捨てたふりをして、いちばん痛いものを、いちばん——」
「——訂正を、して差し上げますわ」
声が、戻っていた。さっきの平らとは、違う平らだった。低くて、底が、見えなかった。
ロゼリア様は、窓のほうを向いて、それから、短く、笑った。怒りでも、泣きでもない、もっと、底のほうの笑いだった。
「あなた、勘違いをしておいでね。——帳簿に綴じるのは、捨てることでは、ございませんのよ」
「……え」
「いちばん痛かったものは、いちばん高い棚に、いちばん丁寧に、綴じてございます。鍵を掛けて。誰にも、見せずに。——なかったことにして消すのと、誰にも見せずに残すのとは、まるで、違いますの。あなた、あちら側で、ずいぶんご覧になったようだけれど。肝心のところは、何ひとつ、見えていなかったようね」
わたしは、しばらく、言葉が、出なかった。
そうだ。この人は、消す人じゃ、ない。残す人だ。世間が、あの人の十年を、「よく気がつく妃」の一言で、残高ゼロにした。——でも、この人だけは。自分で、いちばん高い棚に、鍵を掛けて、ちゃんと、残していた。世間に消されたものを、本人だけが、守っていた。誰にも、見せずに。
わたしが、心配することなんて、何も、なかったんだ。
「……すみません」わたしは、笑ってしまった。今日、初めて。「わたし、いらない心配を、しに、来たみたいです。あなたが、自分を、なかったことにしてたら、いやだな、って。——でも、ぜんぜん、違った」
「ええ。お節介な、娘」
あの人は、もう、こちらを見ていなかった。けれど、追い返しも、しなかった。
*
帰り際、振り返ると、ロゼリア様の手が、胸元の、細い鎖に、触れていた。
その仕草で、わかった。
——いちばん高い棚は、たぶん、あそこだ。鍵の掛かった、胸の上の、小さな、何か。
わたしには、それが何かは、わからない。
わからないけど、見なかったことに、した。いちばん高い棚の中身を、無理に覗くものじゃ、ない。
それくらいの分別は——あちら側で、崩れていくものばかり、数えてきたわたしにも、ちゃんと、ついたんです。




