番外編・犬の手記③ 贈り物を隠す手
雨の夜だった。
門番小屋の隣の小部屋に、灯が一つ。番犬として置かれて、まだ数日。セドリック・ヴェルダンテは机に向かい、市場の隅で銅貨二枚で買った安帳面を、両端から使い始めていた。
片端は、彼女の言葉を写す頁だ。日付と、投げられた一言を溜めていく。今夜そこに二行が増えた。利息の支払いの記録、とでも呼ぶべきものだった。
もう片端——表紙のすぐ裏から、逆向きに、彼はもう一つの頁を起こしていた。今夜書いた表題は一行きり。「女王陛下のための頁」。亡命の儀典官に向かって、いずれ高い座に就かれます、などと口にすれば無礼にしかならない。口にできないことを、彼は書くことにした。礎の一行には、門前で三晩、雨に滲ませなかったあの一枚を写した。祝辞の前に弔意を。詫びのために懐へ入れた一行が、備えのための一行へ、場所を変えた。
この頁は、誰にも見られてはならなかった。とりわけ、彼女には。
そこへ、戸が叩かれた。
雨の夜半に、番犬の寝床を訪う者はいない。彼は安帳面を閉じた。閉じる手が、わずかに速かった。速さが、かえって隠すものの在処を教えることを、閉じてから気づいた。手遅れだった。
戸の外に、盆を持った老家令が立っていた。湯気の立つ碗が一つ。
「白湯にございます。冷えは寝つきの妨げと申しますれば」
頼んだ覚えはなかった。毛布のときと同じだった。この家には、命じられぬ先に運ばれてくるものが、いくつかあるらしい。彼は礼を述べ、碗を受け取った。家令は出ていく気配を見せず、机の上に目を落とした。落としたまま、動かさなかった。
「古いお帳面に、新しい栞の紐でございますな」
セドリックは答えなかった。弁明する材料はいくらでもあったが、弁明をする習慣は、門前で捨てていた。
家令は碗の盆を脇へ寄せ、ゆっくりと口を開いた。
「四十年、人の隠し事を見て参りました。中身までは存じませんが、隠し方で、おおよその見当はつくものでございます。——詫び状を隠す手と、贈り物を隠す手は、速さが違いますので」
雨が窓を打った。
「ただいまのは」家令は碗の湯気を見ながら言った。「贈り物を、隠す手にございました」
セドリックは碗を両手で包んだまま、しばらく黙っていた。老人は帳面を開けと言わなかった。開かせる必要がなかった。中身を見ずに、外側だけで、彼が何をしているかを言い当てていた。十年、彼の一日を余白から組み立てていた手の主と、同じ種類の目だった。この家には、そういう目が二つある。
「……ロゼリア様には」
言いかけて、彼は止めた。ロゼリア様には言わないでくれ、と乞うのは、また一つ、自分を軽くする道具を使うことだった。彼は言葉を呑み、頭を下げただけだった。ご随意に、という意味の沈黙だった。
家令はその沈黙を、しばらく検めていた。
「本日、お嬢様にご報告すべき事実は」やがて老人は言った。「雨脚のことのみにございます。昼まで弱まらぬ由。——それ以外に、報告すべき事実は、本日はございませんでした」
ございませんでした、と過去の形で言った。これから起きないことではなく、今日はもう起きなかったこととして、老人はそれを畳んだ。四十年、最悪のときに事実だけを告げてきた男の、おそらく初めての省略だった。
セドリックは顔を上げた。
「いつまで、ございませんのか」
「さて」家令は盆を取り上げた。「贈り物は、急いては、なりませぬ。受け取る側の手が空くまで、温めておくものにございます。冷めた贈り物は、押しつけと申しまして、いちばん値が下がりますゆえ」
それから、ほんの少しだけ、声を落とした。
「四十年、それで参りました。お嬢様は、ご自分に向けられたものほど、お気づきになりませぬ。気づかれぬうちに、整えておく。礼を言われぬ仕事は、報告いたしますと、なぜか礼を言わねばならぬ仕事に変わってしまう。——もったいないことでございます」
セドリックは、その言葉の帳尻を、しばらく合わせていた。
この老人もまた、四十年、礼を言われぬ仕事を、報告せずに積んできた。気づかれぬように、整え続けてきた。いま机の上にある逆向きの頁と、同じ種類の帳面を、この家にはもう一冊、はるかに分厚いのが、とうに存在していた。先回りをする側の人間が、この屋敷には、すでに一人いたのだ。番犬は、そこへ後から加わる、二人目にすぎなかった。
「……ご教示、痛み入ります」
「教示ではございません。事実の確認にございます」家令は戸口で一礼した。「白湯は、お早めに。冷めますと、ただの水にございますれば」
戸が閉まった。雨音だけが残った。
セドリックは碗の白湯を一口飲み、それから安帳面を、もう一度開いた。逆向きの頁の、新しい栞の紐に触れる。古い帳面に、その紐だけが新しかった。今夜、この頁の存在を知る者が、彼のほかに一人できた。だが、その一人は、四十年それを報告せずにいられる男だった。秘密は、増えたのではない。守られる側に、回っただけだった。
窓の硝子の向こう、軒の暗がりで、灰色の縞が一度だけ目を光らせ、すぐに雨に溶けた。見たことを言いつける生き物は、この家には一匹もいないらしい。
彼は表題の下に、二行目を書き足した。今夜、家令が置いていった一行だ。
——贈り物は、受け取る側の手が空くまで、温めておくこと。
割れたペンの先で、その一行は少しかすれた。かすれたまま、彼は栞を挟み直し、灯を細めた。利息の支払期限は一生だが、贈り物の温めようは、どうやら、急がなくてよいものらしかった。




