番外編・猫陛下観察記① 朕の屋敷
朕は、この屋敷を統べる者である。
名を陛下という。女官が付けた。王妃教育の十年を袖にした男が殿下であったから、その女の主たる朕は、殿下より上の位でなければ釣り合わぬ——と、そういう理屈であったらしい。下々の見立てにしては、悪くない位じゃ。朕は黙って受けてやった。即位の感想は、特にない。
朕の御座所は五箇所ある。日向に二、暖炉の前に一、書庫の窓辺に二。冬用の座布団は、夏のうちに献上される。賢いことじゃ。冬は急に来る。北の桟橋の干し魚は、樽で届く。これも当然である。朕を労うのは、臣下の務めじゃ。
下々の目には、女官が猫のために際限なく散財している、と映るやもしれぬ。違う。あれは貢ぎ物という。納める側に、納める喜びがある。朕はその喜びを、取り上げずにいてやっておるだけのことじゃ。寛大な御代である。
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朕の筆頭女官の名を、ロゼリアという。
世間は、王宮を捨てて流れてきた公爵令嬢、と申すらしい。逆じゃ。**朕が、あの女を選んでやった**のである。
まだ朕が王宮の温室裏に在った頃、あの女は毎日、誰も来ぬ細い日陰へ来た。鎧のような衣の継ぎ目を、その三歩ぶんの日陰でだけ外して、朕に向かって、答えの要らぬ話をした。茶葉の産地を間違えて居残りにされたの、晩餐の席順がどうの。朕は聞かぬ。聞かぬが、干し肉は食うてやった。食う間だけは、逃げずにいてやった。三年かけて、ようやくじゃ。あの女が、朕の前でだけ、ほんの少し背を丸めることを、朕は許した。
人というのは、答える獣の前では、本当のことを言えぬものらしい。だから朕が要ったのじゃ。
王宮を出る朝、馬車が動き出した。朕は前庭を半分、走った。垣根を抜け、衛兵の足元をくぐり、馬車に並んだ。——断っておくが、追うたのではない。散歩である。たまたま行き先が、同じであったというだけじゃ。脇腹が速く上下していたのは、朝が冷えておったゆえじゃ。それ以外の理由は、関知せぬ。
国境で、あの女は朕に位を付けた。朕は、クッションの上で目を細めて、受けてやった。王宮をひとつ失うた女が、陛下をひとつ拾うた。悪くない交換であったろう。少なくとも、朕の側は損をしておらぬ。
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さて。近頃、朕の屋敷に、犬が一匹おる。
雨の日に、門前で三晩鳴いておった、あの男じゃ。朕は門の内側から、一度、検分してやった。格子の隙間から、雨に濡れて立つのを、上から下まで見た。乞う前から、屋根のある席は朕のものじゃ。あれは、それを乞いに来た獣であった。朕は興味を失うて、奥へ戻った。乞う者の列に、いちいち付き合う朕ではない。
その犬が、いまは番犬として屋敷に置かれておる。女官が、査定とやらをしておるらしい。人の査定は、人の勝手じゃ。だが——
**朕には、朕の査定がある**。
朕の査定は、人のそれより上位の審査じゃ。なにせ朕は、この屋敷でいちばん長く、あの女を見てきた者である。誰を近くに置いてよいか。それを決めるのは、女官ではない。朕じゃ。
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まず、餌皿の前を横切ってやった。
犬の前に、皿が置かれる。朕は、そのちょうど鼻先を、ゆるりと横切る。試しておる。物欲しげな獣なら、ここで気を散らす。犬は、皿も朕も見ず、ただ女官の声のする方へ耳を向けたままであった。皿より、命令を待っておる。——ふむ。食い意地より、躾が勝つ口か。一点。
次に、犬の寝床の、いちばん高い板を占拠してやった。
獣というのは、寝場所の上を取られると、たいてい唸る。犬は、唸らなんだ。朕に手も伸ばさぬ。高い板は、はじめから朕のものという顔で、自分は低いところに伏せた。間合いを、詰めてこぬ。——この間合いの取り方を、朕は知っておる。三年前、温室裏で、あの女が朕に対して取った間合いと、同じ手つきじゃ。三歩、退く。詰めぬ。譲る。
はて。誰が、この犬に、その手つきを躾けたのか。
女官ではあるまい。女官は、この犬に躾など授けておらぬ。命じておるだけじゃ。とすれば、この犬は、誰に教わるでもなく、ひとりでに、あの女の手つきをなぞっておる。なぞっておることに、たぶん本人も気づいておらぬ。——面妖な犬じゃ。面妖だが、二点目。
最後に、犬の差し出す餌を、食わずに去ってやった。
犬が、皿に何かを取り分け、朕の方へ寄越そうとする。朕は、見もせぬ。尾を一度立てて、去る。**まだ、許してはおらぬ**ゆえじゃ。朕の口に入る物を決めるのは、献上する側ではない。朕じゃ。今日はやめておく。それだけのことじゃ。明日のことは、明日の朕が決める。
去り際、犬は失望もせず、皿を黙って下げた。寄越せなんだことを、恨みもせぬ。——寄越して、受け取られて、それで貸し借りを作る気が、はなから無いのじゃ。報われずに済むことを、むしろ望んでおる節がある。妙な獣じゃ。
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ところで、人というのは、隠し事が下手じゃ。
朕の女官は、犬を見るたび、見なかったという顔をする。三十秒ほど見て、それから、見なかったことにする。毎日じゃ。朕は、その「見なかった顔」を、毎日数えておる。今日で何度目になるか、もう覚えておらぬ。
犬のほうは、もっと滑稽じゃ。女官に何か褒められると——褒められた、とも言えぬほどの短い一言じゃが——ありもせぬ尾を、振る。人に尾はない。ないものを、振る。背筋は伸びたまま、顔も動かさぬまま、見えぬ尾だけが、ぱたりと動く。本人は、抑えておるつもりらしい。抑えきれておらぬ。
互いに、隠せておると思うておる。
滑稽な。朕には、両方とも、丸見えじゃ。女官の「見なかった顔」と、犬の「ありもせぬ尾」。あれが向き合う日に、何が起きるか、朕にはとうに見えておる。見えておるが——**朕の関知するところではない**。下々の色恋に、皇帝が口を出すは、はしたなきこと。朕は、関知せぬ。断じて、関知せぬ。
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では、なぜ朕は、この査定を続けておるのか。
退屈しのぎである。それ以外に理由はない。——と、しておく。
今日、こういうことがあった。
女官が、廊下で手袋を片方、落とした。気づかず、行ってしまった。落ちた手袋を、犬が拾うた。朕は、書庫の窓辺から見ておった。
犬は、女官を追って渡しはせなんだ。追って渡せば、礼を言わせることになる。礼を言わせれば、貸しになる。貸しを作れば、あの女は何かを返そうとする。——犬は、それを避けた。代わりに、女官が必ず通る道の手すりの上に、見つけやすいように、手袋を置いた。誰にも言わず。自分が拾うたとも、告げず。そうして、何事もなかった顔で、持ち場へ戻った。
報われぬ仕事を、こっそりと済ませる手つきであった。
朕は、長いこと、その手すりの手袋を見ておった。あれは、三年前から朕の知っておる手つきじゃ。誰も来ぬ温室裏で、あの女が、誰にも数えられぬところで、国の半分を黙って繰っていた、あの手つきと、同じものじゃ。同じ手つきの者が、もうひとり、この屋敷に増えた。
よかろう。
朕は、決めた。この犬は——**朕の人間を、泣かせる側の獣ではない**。泣かせぬ側じゃ。皆が見放した女を、誰も数えぬところで、こっそり庇う側の獣じゃ。
許した、とは言わぬ。皇帝は、軽々しく許さぬ。ただ——**当面、生かしておいてやる**。朕の屋敷に、置いておいてやる。それくらいの寛大は、御代に一度や二度、あってよい。
女官が、手すりの手袋に気づいて、足を止めた。誰が、と振り返り、誰もおらぬのを見て、首をかしげ、それから黙って手袋を拾うた。
朕は目を細め、尾を一度、ゆっくりと揺らした。
——気づくのが遅いぞ、我が女官。
朕は、とうに、見ておる。




