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私を捨てた殿下が、雨の門前で「犬にしてください」と跪いています  作者: イレニス
番外編

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番外編・何でもない一日

何も起きない日というのが、いちばん高くつく。


戦も飢饉も醜聞もない朝は、それだけ多くの者が見えないところで滞りなく働いている証だ。何も起きないのは運ではない。誰かの帳尻が、片端から合っている。今日もまず、予定帳を開いた。


黒革の予定帳である。十年使っている。留め紐だけが、いつかの夜に替えたまま、まだ新しい。几帳面な予定の余白に、几帳面でない走り書きが残っている。茶葉の銘柄。誰の名でもない覚え書き。——私自身の字だ。余白を埋めてもらう椅子から降りれば、その余白を埋めるのは自分の仕事になる。少し骨が折れる。悪くない。



朝の決裁は、配置した男たちの、機能している音から始まる。


北の国境から、騎士の書状。砦の補強、相成り候、近く必ずや凱旋の栄に——と、相変わらず声の大きい字だ。凱旋する先の隣が、すでに猫の占領済みだと、この男は知らない。宰相補佐の若者からは、未決裁が三百件から二百件台へ減った旨の報告。日付の変わる前に机へ突っ伏すほうへ銀貨を賭けたのは、私の読み違いだったらしい。突っ伏しながら、片づけている。商会長は、関税三割増しの独占権を、たいそう喜んで履行していた。求婚を断られて、いちばん潤った求婚者だ。妻に望んだ女へ税を払うのが、こうも嬉しそうな男も珍しい。


——三人とも、私の隣ではなく、それぞれの持ち場で、ちゃんと値が張っている。恋の返事は、一つもしていない。それでも、国は回る。



「お嬢様」


人払いをしたはずの部屋に、命じられぬ先に入ってくる者が、この屋敷には一人いる。盆に、湯気の立つ碗を一つ。名を訊いたことのない老家令だった。玉座に着いても、この男は私を「陛下」と呼ばない。八つのころから「お嬢様」だ。これだけは、国が変わっても変わらないらしい。


「届け物にございます」


盆の隅に、一通。封蝋の質素な、北からの手紙だった。差出は、リュシー・メルロー。北の修道院で静かに暮らしているはずの娘だ。封を切る。中身は、礼でも詫びでもなかった。修道院の畑で南瓜がよく穫れたこと、不慣れな手で作った薬草の塩漬けが思いのほか評判だったこと——そういう何でもないことが、不慣れな敬語で並んでいた。最後に一行、女王陛下のご健勝を、とある。


媚びでも、すがりでもない。敵でもなければ、味方でもない。別々の場所で、それぞれの畑を耕す者同士の、対等な一通だった。器のない椅子から降りた女が、自分の畑の作柄を、自分の字で書いてよこす。——降りた者にしか書けない便りが、ある。


「ご返事は」と家令。


「南瓜の出来を、北の女王が褒めていた、と。それで足りる」


「左様でございますね」家令は碗を置いた。「——なお、薬草の塩漬けは、城の厨でも近ごろ評判にございます。北から作り方が回ってまいりましたゆえ」


頼んでもいない事実を一つ、置いていく。北の畑は、もう城の食卓まで届いているらしい。何もかもが、私の知らぬところで、そっと回っている。



社交紙の隅に、二つ、見覚えのある名が落ちていた。


一つはグランヴィル。かつてこの国の半分を握ったつもりの男が、いまは地方の小さな所領で、隣家との水利の係争に明け暮れているという。社交紙は、その権勢を半行の値打ちと査定した。妥当だと思う。もう一つはベルクール。冠を値踏みした侯爵家が、いまは己の娘一人の嫁ぎ先に難渋しているとある。費目が変わったのだ。国家の簒奪から、一軒の心配ごとへ。


溜飲を下げるほどの熱も、もう湧かない。彼らの末路は、帳簿のいちばん細かい欄に、淡々と記帳されるだけになった。怒りに値しなくなる——それが、いちばんの凋落である。社交紙を畳む。



昼を過ぎて、犬が報告に来た。


「異状、ありません」と、彼は言った。「東門の付け替え、滞りなく。城下の見回り、変事なし。——本日は、何も、起きておりません」


何も起きていない、と、わざわざ報告に来る。何も起きないように朝から動き回った者にしか言えない台詞だ。出回らなかった怪文書も、未然に消えた火種も、報告書には一行も載らない。載らない仕事を、この男は十年、報告も求めず積んできた。今日も一山、六文字に畳んで。


「上出来だ」と、言ってやってもよかった。例によって、言わなかった。代わりに、予定帳に目を落としたまま言った。


「お前はいちばん安い番犬として、今日も無駄に優秀だな」


俸給は干し肉ひと束で足りる、という意味の侮蔑だ。彼は、それを両手で受け取った。


「光栄です。無駄働きでしたら、いくらでも」

「無駄を誇る門番がどこにいる」

「ここに一匹」


——真顔で言う。叱る口実を、今日もまた、自分から一つ増やしていった。


退室の前に、彼は懐から薄い帳面を取り出した。例の手帳だ。「いただいた御言葉」と、拙い字で表紙にある。廊下の灯を一度確かめ、新しい一行を書き足した。「いちばん安い番犬」とでも、書いたのだろう。賞賛ですらない侮蔑を、宝石を綴じるように丁寧に綴じる。


私は予定帳から目を上げず、横目だけで見ていた。もう、頁は見ない。見るのは、書き足す手の——その止まらなさのほうだ。二冊の帳簿は今日も突き合わされないまま、隣を走っている。彼が値の張る言葉を綴じるたび、私の帳簿に、こっそり利息が乗る。



人が引いて、灯が一つになった。


玉座の隣の席には、今日も猫がいる。陛下、と呼ばれている灰色のが、当然という顔で丸くなっている。あれほど審査の厳しい席を、税も払わず忠誠も誓わず占領できるのは、この屋敷でただ一匹、陛下だけだ。退きなさい、とは言わない。空けておくべき席を、いちばん税のかからぬ者に預けておくのも、今日のところは悪くない。


机の端に、駒が一つ残っている。


隣国サンクレールの、大公オーレリアン。名代が置いていった婚姻同盟の書状を、一度未決の箱へ戻したきり、まだ配置のつかない一手だ。騎士のように国境へ飛ばすことも、商会長のように関税へ翻訳することもできない。女が戴いた冠を、隣の大国が値踏みしている。


私は、その駒に、指先で一度だけ触れた。冷たい象牙だった。配置のきかない案件は、利息が膨れる。いずれ、利息ごと払わせてもらう。——けれど、今日ではない。


指を離す。駒は、机の上に、静かに残った。



予定帳を閉じる。音は立てない。


今日も、何も起きなかった。私が数え、配り、寝かせてきたものが、片端から帳尻を合わせている。地続きだ。


明日も縁談は積まれ、怪文書もたぶん一枚は出回りかける。犬はそれを未然に潰し、「何も起きておりません」と報告に来る。私はまた「及第点」と言ってやる。あの男はまた一行、帳面を増やし、私はまた横目で、それを盗み見る。


いちばん高い棚の、鍵のかかった抽斗。そこにしまった一言は、まだ出さない。理由は、もう意地ではない。出せば、隣を走るこの二冊が突き合わさってしまう。揃えば、明日の収支がわからなくなる。——わからないほうが、いい。


何でもない一日が、また一日、明日へ繰り越される。利息つきで。


明日は、ほんの少し、収支の合わないほうへ転びそうだ。それを、楽しみにしておく。


灯を消す前に、窓の下を見る。門までの石畳を、見回りの犬がひとつ、いつもの歩幅で歩いている。塀の上には、月色の目がふたつ。


——異状、なし。私の帳簿にも、そう記しておく。

これにて本編45話・番外編15話、すべての帳簿を閉じます。長い連載を最後まで読んでくださったあなたへ、心からの御礼を。

二冊の帳簿はこれからも、突き合わされないまま隣を走り続けます。その続きを、時々思い出していただけたら幸いです。

よろしければ、ご評価やひとことの感想を。いただいた言葉が、次の物語の灯になります。イレニスでした。またどこかの夜、21時台に。

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