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私を捨てた殿下が、雨の門前で「犬にしてください」と跪いています  作者: イレニス
終章 女王と犬

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第45話 私の国には、陛下と犬がいる(最終話)

朝の玉座の間に差す光は、戴冠の日と同じ色をしている。


胸の奥が静かなのは、検算の済んだ帳簿を閉じるときと同じだ。


値踏みをするのは、いつだって私の側——それが、この国の新しい秩序だった。


玉座の肘掛けには、灰色の縞が当然の顔で丸くなっている。琥珀の目が薄く開き、遅い、とでも言いたげに尻尾の先だけが動いた。この方が肘掛けを玉座と定めて以来、私の右腕の置き場は恒久的に接収されている。賃料の請求はまだない。請求されたら払ってしまいそうなのが、我ながら問題だった。


一段下には黒リボンの犬がひとり、姿勢を崩さず控えている。女王の紋章入りの結び目は、今朝も寸分の狂いなく正面を向いていた。あれを結んだのは私の手だ。ほどく予定は、当面、帳簿のどこにも載っていない。


「本日の謁見、十二件。うち縁談の打診が七件にございます」


宰相補佐が書類を読み上げる。七件。先月より二件多い。需要は上向き、ただし供給はゼロ。市場として成立していないのだけれど、各国は懲りなかった。


ちなみにこの宰相補佐も、半年前までは求婚者の列に並んでいた男だ。今は政務の費目に計上され、誰より長く私のそばで書類をめくっている。本人いわく「これが一番割のいい配置でした」とのこと。査定眼のある男は使いやすい。


最初に進み出たのは北方の騎士団長だった。剣を捧げ、生涯の忠誠と、ついでのように婚姻を申し出る。


「忠誠はありがたく受け取ります。あなたの剣は国境警備の費目に計上しますわ。婚姻のほうは——査定の結果、見送りですわ」


「……差し支えなければ、理由を」


「剣は折れても替えが利きます。夫は利きません。在庫管理の難しい品は仕入れない主義ですの。わたくし、帳簿の合わない買い物はいたしませんわ」


騎士団長は妙に納得した顔で下がった。武力、配置完了。


次は商会連合の若き総裁。交易路の独占権と引き換えに、という型のやつ。


「独占権は売りません。けれどあなたの船団は買います。南航路、関税優遇、三年。これで手を打ちなさい」


「は……婚姻条項は」


「付帯しませんわ。船を買って夫がついてきたら、それは積み荷の誤記というものでしょう」


「……仰る通りで」


経済、配置完了。帳簿の上では今日も黒字だ。


最後に、隣国の第二皇子が進み出た。これが一番の難物で、一番の上客でもある。彼は型通りの口上を終えると、ちらりと玉座の隣——空けてある席に目をやった。


「女王陛下。お隣の席は、いつも空けておられるご様子。差し支えなければ、いずれその席を、我が国との誼の証に……」


「ああ、あの席」


私は扇を畳んで、空いたままの一段を見やった。


「空けてあるのには理由がありますの」


「伺っても」


「帳簿外。」


皇子は二度まばたきをした。


「……費目の、ご開示は」


「いたしません。条約のお話は予定通り進めますわ。お席のお話は、ここまでですわ」


皇子は外交官の笑顔で引き下がった。外交、配置完了。隣の席の費目だけは、誰にも開示しない。開示する義務が、そもそもない。


謁見が終わると、玉座の間は急に静かになる。


「セドリック」


名で呼ばれた犬が、半拍遅れて顔を上げる。返事より先に、耳が動いた——ように見えた。


「はい、女王陛下」


「今日の段取り、悪くなかったわ。皇子の随員の控え位置を変えたのは、あなたの進言ね」


「……はい」


目が一瞬、明るくなった。すぐに伏せられたけれど、黒リボンの結び目の上で、確かに光った。まったく、この犬は。褒められた分だけ尻尾を振らずにいる訓練を、どこで積んできたのだか。


ふと、玉座の隣の空席に目をやって、気づいた。誰も指図していないのに、今朝も、あの席の埃が払われ、椅子の脚のわずかな歪みが直されている。空けておくと決めた席だ。座る者はいない。それでも毎朝、誰かが整えている。報告は上がってこない。上がってこない仕事の主を、私はもう一人しか知らない。


座る者のいない椅子を磨くのは、いちばん報われない仕事だ。礼を言う口さえ、そこにはない。あの犬は、いちばん報われない仕事を、わざわざ選んで、黙ってやる。


帳簿外。


「次も同じ水準でなさい」


「御意に、女王陛下」


私は玉座に深く座り直す。と、肘掛けの占領者が前脚を伸ばし、私の手の甲に肉球をひとつ置いた。検分するような琥珀の目。今日の働きを査定されているのは、どうやら私のほうらしい。


「いかがでしたか、陛下」


灰色の縞は、大きな欠伸でお応えになった。それから前脚に顎を載せ、続けなさい、とでも言うように目を閉じる。合格、ということにしておく。この方の査定基準は永遠に開示されないけれど、不思議と、異議を申し立てる気にはなれない。


一段下で、犬がほんのわずかに口元を緩めたのが見えた。女王が猫に伺いを立てる図を、この宮廷で笑わずに見ていられる者は、もうこの男くらいのものだ。


「何かしら」


「いいえ。……良い宮廷だと思っただけです、女王陛下」


「当然でしょう。配置したのはわたくしですもの」


窓の外では、再編されたばかりの国の屋根が、薔薇色の夕日に染まりはじめていた。


私の国には、気まぐれな陛下と、従順な犬がいる。——悪くないわね。


(了)

全45話、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。〔完結〕

この先は番外編(犬の手記、猫陛下観察記ほか)をシリーズにて順に公開します。いただいた感想とご評価が、次の物語の灯になります。またどこかの夜、21時台に。

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