第43話 よくできました
胸の奥が、朝から静かに騒いでいる。
戴冠の正装に袖を通しても、冠の重さを聞かされても揺れなかったものが、扉の外に立つ一人の気配ひとつで、こんなにも落ち着かない。
私は鏡の前で、緋がかった薔薇色の髪をひと筋だけ直し、息を整えた。
「お通しなさい」
セドリック・ヴェルダンテは、式典の列に並ぶ者として許される最も簡素な礼装で入ってきた。猫の陛下は今日ばかりは留守番らしい。彼は三歩手前で止まり、深く礼をして——両手に、二冊の帳面を載せていた。
一冊は、黒革の古い予定帳。王太子だった頃の彼が持ち歩いていたもの。
もう一冊は、見覚えのない、まだ角の硬い新しい手帳。
「式の前に、お返しすべきものと、お見せすべきものがございます」
彼は古いほうを先に、卓の上へ置いた。革は乾き、背は割れかけている。開かれた頁の余白には、細い字がびっしりと走っていた。式典の段取り。同席者の好む話題。彼が口を滑らせやすい議題への迂回路。——十年ぶんの、私の字。
「この国を支えていた文字を、私は読んでおりませんでした」
声は低く、まっすぐだった。
「十年、この余白を視界に入れながら、一度も読まずに王子でおりました。読んだのは、すべてを失ってからです」
私は頁をめくった。十六の私の字は硬く、二十歳の私の字は速い。インクの色が三度変わっている。誰にも気づかれぬよう書いた、誰にも請求しなかった十年。あの頃は費目すら立てなかった。立てれば、戻ってこないと知ってしまうから。
「いつ、読み終えましたの」
「冬の終わりです。三度、最初から読み直しました」
三度。私が書くのに使った十年を、この男は三度なぞった。指の腹で革の割れ目に触れると、丁寧に油を差した跡があった。乾いて捨てられるはずだったものに、手入れの跡があった。
「もう一冊は」
「私の字です」
新しい手帳が、古いものの隣に並んだ。開かれた最初の頁には『いただいた御言葉』とあり、私が彼に投げてきた言葉が、日付つきで几帳面に写されている。続く頁は『女王陛下のための頁』。井戸の改修の覚書、北の街道の凍結時期、私が一度だけ口にした菓子の名。最後のほうに『女王陛下の敵』の頁があって、そこだけ筆圧が深かった。
「あなたの文字を、何度もなぞりましたので」
彼は静かに言った。
「字を作り直すところから始めました。前の字は、署名しか書いたことのない字でしたから」
言われて見比べる。新しい手帳の字は、確かに私の字に骨格が似ていた。線の細さ、余白の取り方、急ぐときの省略のかたち。けれど写しではない。私より角が深く、私より遅い。一画ずつ、確かめながら書く字だ。
「『女王陛下の敵』の頁は、ずいぶん埋まっておりますのね」
「はい。式のあと、順にご報告いたします」
「報告だけになさい。手出しは禁じますわ」
「承知しております」
短い。けれど、頁の筆圧がすでに答えだった。
二冊の帳面が、卓の上で並んでいる。読まれなかった十年と、なぞられた一年。空白と、埋め直し。私は灰青の目を伏せて、しばらくその二冊を見ていた。帳簿外。——この眺めにつける費目を、私はまだ持っていない。
顔を上げる。最後の問いが、ひとつ残っていた。机の上の王家の指輪。昨日までこの男に開かれていた、戻り道。
「ひとつだけ、確かめますわ。わたくしの戴冠より先に片づけるべき案件は、これで最後ですわ」
私は彼の目を見た。
「あなたは、王になりたいのではなく?」
セドリックは即答しなかった。逃げたのではない。言葉を選び直す間も惜しまず、彼は古い予定帳に一度だけ視線を落とし、それから私に戻した。
「今は、あなたに『よくできました』と言われる者でありたい」
——息が、一拍止まった。
十年。襟を直し、席を整え、失言を埋めて、私は一度もその言葉を口にしなかった。彼が一度も、欲しがらなかったからだ。与えられて当然のものしか、あの男は知らなかった。
その男が今、身ひとつで、自分の字で、それだけを欲しがっている。
机の上の指輪を、私は見なかった。行き先はまだ決めない。決めるのは、今日この男に渡す言葉ではない。
私は立ち上がり、卓を回って彼の前に立った。手が勝手に伸びて、彼の襟元をわずかに直す。十年で千回はやった仕草なのに、指先が今日だけ言うことを聞かない。
「式では、列の三番目に立ちなさい。視線は壇上。よそ見は減点ですわ」
「はい」
「それから——」
私は一度だけ言葉を切った。鐘が鳴り始める。戴冠の朝の、最初の鐘。
「よくできました、殿下」
彼の喉が、かすかに震えた。
——よくできました。
長くお預けにしていた言葉が、ようやく出ました。受け取った犬の心中を想像して、よろしければ感想で。物語は明日、完結いたします。




