第42話 戴冠前夜の庭
明日、私は女王になる。
その実感より先に、夜気の冷たさが指先に届いた。戴冠とは存外、頭ではなく肌で覚えるものらしい。
庭の石卓に肘をついたまま、私は秋分前夜の空を見上げていた。
灯りは落としてある。月だけで十分だった。手入れの行き届いた庭に、季節遅れの薔薇が幾つか、白く浮かんでいる。明日の今ごろ、この国には新しい名と新しい女王があって、私は今夜の私ではなくなっている。それを惜しいと数えるのか、安いと数えるのか、珍しく勘定が立たなかった。
膝の上では陛下が丸くなり、尻尾の先だけをゆっくりと揺らしていた——眠ってはいない、という意思表示。この猫は私よりずっと夜更かしが得意だ。
そして、少し離れた生垣の影に、犬がいる。
セドリック・ヴェルダンテ。元王子。査定は合格、処遇は未定。私の帳簿で唯一、貸方にも借方にも記せないまま繰り越され続けている項目。
「そこにいるのは分かっていてよ。出てきなさい」
「はい。お休みのところを、と思いまして」
「眠れる夜だと思って? 明日のことを考えれば」
衣擦れの音もほとんど立てず、彼は三歩だけ近づいて止まった。近すぎず、声の届く距離。距離の取り方まで採点基準を覚えてしまった男だ。教えた覚えなど、ないのに。
膝の上で陛下が薄く目を開け、彼を一瞥し、また閉じた。許可、と私は翻訳しておく。最近この猫は、私より先に彼の扱いを決めてしまう。
「いい夜ですわね」
「はい」
「ひとつ、白状いたしますわ」
夜のせいだ。帳簿を閉じたあとの時間だから、言える。
「途中で逃げると思っていたわ。査定の半ば、薪割りと写経のあたりで、あなたは荷物をまとめて国境へ消える——そう踏んでいた。逃亡された場合の損失額まで、ちゃんと計上してあったのよ」
彼はすぐには答えなかった。月が雲を抜けて、その顔を照らした。
「逃げる理由なら、いくつもありました」
静かな声だった。弁明の調子は、どこにもなかった。
「けれど、逃げてよい理由は、ひとつもありませんでした」
それだけ言って、彼は口を閉じた。理由の中身を並べ立てもしなければ、健気さを売り込みもしない。一年前の彼なら、ここで三行は喋った。その三行が消えるまでに、何が要ったのか——私はそれを、帳簿の外で知っている。
一年前、玉座の間で私を断罪しようとした顔と、同じ輪郭。同じはずなのに——いや、よそう。差分の計上は夜が明けてからだ。
私は指を折って数えた。声には出さず、けれど隠しもせずに。
名誉。彼は廃嫡の布告に、一言も異を唱えなかった。
手柄。北部の水路の件。あれは彼の発案だったのに、報告書のどこにも自分の名を残さなかった。私が気づいたのは、ずっとあとだ。
これだけは、声に出した。「水路の件、あなたの発案でしたわね」
「——あれは、あなたの予定帳の書き方を、真似ただけです」
返上する気だ、手柄まで。「加点の返上は、受け付けておりませんの」
王位。評議会の席で、誰に促されるでもなく、自分の言葉で手放した。指輪は今も、私の机の上で行き先を待っている。
言い訳。この一年、ただの一度も。「ですが」も「しかし」も、彼の口から聞いていない。
数え終えて、息をひとつ吐いた。白くはならない。まだ秋は浅い。
四つ。たった四つの項目に、一年かかった。安い買い物ではなかったはずだ、彼にとって。それなのに彼は、ひとつ手放すたびに、軽くなった顔をした。失う側の顔ではなかった。あれを何と呼べばいいのか、私はまだ正しい科目名を持っていない。
「あなた、ずいぶん身軽になったでしょう」
「はい。身ひとつです」
「身ひとつの男を、明日からどの費目に——」
言いかけて、やめた。
帳簿外。
今夜だけは、それでいい。
膝の上の陛下が立ち上がり、ひと伸びして地面へ降りた。そのまま迷いのない足取りで彼の足元まで歩いていき、前足を揃えて座る。そういう采配を、この猫は私より早くやってのける。悔しいとは言わない。記録もしない。
風が、薔薇の残り香を運んできた。私は石卓から立ち上がり、彼の正面に立った。月明かりの下、まっすぐに見上げる。
「明日、わたくしは女王になりますわ」
「はい」
「女王は、臣下が積み上げたものを見落とさない。それが最初の職務だと、わたくしは思っているの」
彼が顔を上げた。灰青と、彼の目が合う。揺れたのは——彼のほうか、私のほうか、確かめるのはやめておいた。
「あなたが差し出したものは、見ました。名誉も、手柄も、王位も、言い訳も」
それ以上は言わない。言わないことに、した。
足元で陛下が、小さくひとつ、喉を鳴らした。
その先のひとことは、机の上の指輪と同じ——行き先未定のまま、今夜は夜に預けておく。




