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私を捨てた殿下が、雨の門前で「犬にしてください」と跪いています  作者: イレニス
第八章 査定その五・王冠より首輪

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第40話 王冠ではなく

胸の奥で、何かが勝手に拍を刻んでいた。帳簿のどの欄にも記入できない速さで。


私はそれを無視して、旧王宮の大広間、その中央に視線を据えた。


今日の議題はただ一つ——ヴェルダンテ王位の処遇である。


帝国の監督使節、新政府の評議員、そして十一家の当主たち。両国の関係者が一堂に会する場を設営したのは儀典官たる私だが、座席の配置にひとつだけ細工をした。十一家を、全員の視線が集まる最前列に並べたのだ。建言というものは、通れば誉れ、潰れれば衆目の前の恥になる。どちらに転んでも記録に残る席を、彼らは喜んで占めた。


「定刻ですわ。お席にお着きなさい」


私の声で、大広間の私語が水を打ったように引いた。怒鳴る必要はない。格というものは、声量ではなく、誰が時計を握っているかで決まる。


「帝国上級儀典官、ロゼリア・ヴァルモンテが議事を預かります。本日の決議は両国の公式記録に残ります——一言一句、漏れなく」


最前列の十一人が、揃って姿勢を正した。記録に残ると聞いて背筋を伸ばす人間ほど、記録に残したくないものを抱えている。


「では、建言者。前へ」


「——以上の次第により、わたくしども十一家は、セドリック殿下の王位御復帰を改めて建言いたしますわ」


筆頭たるベルクール侯の声は、よく油を差した蝶番のように滑らかだった。王冠は殿下に、実務はヴァルモンテ嬢に。男の頭に冠を載せ、女の手に雑巾を握らせる——あの骨抜きの構図を、侯は「両国の架け橋」と言い換えてみせた。言い換えの技術だけなら、儀典官として雇ってもいいくらいだ。技術だけなら。


「殿下の御意向を、この場にて賜りたく」


満座が、一人の男を見た。


セドリック・ヴェルダンテは、末席から立った。冬の夜に私が直した位置のまま、襟元は一分の狂いもない。彼は壇上へは上がらず、広間の中央——誰よりも低い床の上で足を止めた。


「建言を、拝読いたしました」


声は静かだった。なのに広間の隅まで届いた。


「お断りいたします」


ベルクール侯の扇が、止まった。


「この国は一度沈みました。沈めたのは、王冠を飾りとしてしか被れなかった私です。そして——この国を救ったのは、彼女です」


彼の視線が、私を射た。逸らさなかった。私も逸らさなかった。


「彼女は誰の妃にもなる必要がない。彼女自身が、玉座に値する。私は、彼女の後ろで、彼女の国を守ることを望みます。建言のいずれの席も、私には過分です」


広間がざわめいた。十一家の最前列で、十一の顔色が順に変わっていくのが見えた。一、二、三——数えるのはやめておこう。回収不能債権を一件ずつ読み上げる趣味は、私にはない。


「殿下、それは——御冗談を」


侯の声から、油が切れていた。


「冗談で王冠を断る男に、あなた方は冠を載せようとなさったのですか」


短い。短いのに、刃だった。担ぐべき神輿に公衆の面前で降りられた十一家は、もう「殿下の御意向」を盾に取れない。建言書は、この瞬間、ただの紙になった。私はその紙の落ちる音を、確かに聞いた気がした。


「御静粛に」


私は議事槌を一度だけ鳴らした。


「建言は、建言者御本人の拒否により不成立。両国の公式記録に、そのように残しますわ。——ベルクール侯、異議がおありなら、いまこの場でどうぞ。後日の異議は受け付けません」


侯は口を開き、閉じた。開いて、また閉じた。陸に上がった魚というものを、私は初めて議場で見た。十一家のどの口からも、言葉は出なかった。当然だ。「殿下の御意向に従う」と言えば建言の取り下げ、「従わない」と言えば王族の意志を踏み越える不敬。私が用意した最前列の席は、退路のない席でもあった。


「異議なし、ですわね。そのように記録します」


そしてセドリックは、私の前まで歩いてきた。


左手の指から、王家の指輪を抜く。印章はとうに返した。これは最後に残った、王族の証——血筋というだけで彼に与えられ、彼が一度も自分の意志で選んだことのなかったもの。抜く所作は、ゆっくりだった。迷いではない。生まれてから今日までの重さを、一秒ずつ指から剥がしていくような速度だった。彼はそれを、両手で、卓上の私の前に置いた。金属が木に触れる音は、驚くほど小さかった。こんなに小さな音で、王朝はひとつ終わるのか。


「王冠も、王位も、かつての私も、すべて返上いたします。誰かに取り上げられるのではなく、私が、手放します」


灰青の視線の先で、緋の髪がわずかに揺れた——揺れたのは髪だけだ、と私は決めた。胸の奥の拍は、まだ勝手な速さのままでいる。査定表のどの欄にも、この鼓動の費目はない。


帳簿外。


載せない。載せたら、私はこの男を採点できなくなる。採点は、まだ終わっていないのだから。


「ヴァルモンテ嬢に、お伺いいたします」


彼は床に膝をついた。誰に命じられたのでもなく。


「王冠ではなく、首輪をください」

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