第40話 王冠ではなく
胸の奥で、何かが勝手に拍を刻んでいた。帳簿のどの欄にも記入できない速さで。
私はそれを無視して、旧王宮の大広間、その中央に視線を据えた。
今日の議題はただ一つ——ヴェルダンテ王位の処遇である。
帝国の監督使節、新政府の評議員、そして十一家の当主たち。両国の関係者が一堂に会する場を設営したのは儀典官たる私だが、座席の配置にひとつだけ細工をした。十一家を、全員の視線が集まる最前列に並べたのだ。建言というものは、通れば誉れ、潰れれば衆目の前の恥になる。どちらに転んでも記録に残る席を、彼らは喜んで占めた。
「定刻ですわ。お席にお着きなさい」
私の声で、大広間の私語が水を打ったように引いた。怒鳴る必要はない。格というものは、声量ではなく、誰が時計を握っているかで決まる。
「帝国上級儀典官、ロゼリア・ヴァルモンテが議事を預かります。本日の決議は両国の公式記録に残ります——一言一句、漏れなく」
最前列の十一人が、揃って姿勢を正した。記録に残ると聞いて背筋を伸ばす人間ほど、記録に残したくないものを抱えている。
「では、建言者。前へ」
「——以上の次第により、わたくしども十一家は、セドリック殿下の王位御復帰を改めて建言いたしますわ」
筆頭たるベルクール侯の声は、よく油を差した蝶番のように滑らかだった。王冠は殿下に、実務はヴァルモンテ嬢に。男の頭に冠を載せ、女の手に雑巾を握らせる——あの骨抜きの構図を、侯は「両国の架け橋」と言い換えてみせた。言い換えの技術だけなら、儀典官として雇ってもいいくらいだ。技術だけなら。
「殿下の御意向を、この場にて賜りたく」
満座が、一人の男を見た。
セドリック・ヴェルダンテは、末席から立った。冬の夜に私が直した位置のまま、襟元は一分の狂いもない。彼は壇上へは上がらず、広間の中央——誰よりも低い床の上で足を止めた。
「建言を、拝読いたしました」
声は静かだった。なのに広間の隅まで届いた。
「お断りいたします」
ベルクール侯の扇が、止まった。
「この国は一度沈みました。沈めたのは、王冠を飾りとしてしか被れなかった私です。そして——この国を救ったのは、彼女です」
彼の視線が、私を射た。逸らさなかった。私も逸らさなかった。
「彼女は誰の妃にもなる必要がない。彼女自身が、玉座に値する。私は、彼女の後ろで、彼女の国を守ることを望みます。建言のいずれの席も、私には過分です」
広間がざわめいた。十一家の最前列で、十一の顔色が順に変わっていくのが見えた。一、二、三——数えるのはやめておこう。回収不能債権を一件ずつ読み上げる趣味は、私にはない。
「殿下、それは——御冗談を」
侯の声から、油が切れていた。
「冗談で王冠を断る男に、あなた方は冠を載せようとなさったのですか」
短い。短いのに、刃だった。担ぐべき神輿に公衆の面前で降りられた十一家は、もう「殿下の御意向」を盾に取れない。建言書は、この瞬間、ただの紙になった。私はその紙の落ちる音を、確かに聞いた気がした。
「御静粛に」
私は議事槌を一度だけ鳴らした。
「建言は、建言者御本人の拒否により不成立。両国の公式記録に、そのように残しますわ。——ベルクール侯、異議がおありなら、いまこの場でどうぞ。後日の異議は受け付けません」
侯は口を開き、閉じた。開いて、また閉じた。陸に上がった魚というものを、私は初めて議場で見た。十一家のどの口からも、言葉は出なかった。当然だ。「殿下の御意向に従う」と言えば建言の取り下げ、「従わない」と言えば王族の意志を踏み越える不敬。私が用意した最前列の席は、退路のない席でもあった。
「異議なし、ですわね。そのように記録します」
そしてセドリックは、私の前まで歩いてきた。
左手の指から、王家の指輪を抜く。印章はとうに返した。これは最後に残った、王族の証——血筋というだけで彼に与えられ、彼が一度も自分の意志で選んだことのなかったもの。抜く所作は、ゆっくりだった。迷いではない。生まれてから今日までの重さを、一秒ずつ指から剥がしていくような速度だった。彼はそれを、両手で、卓上の私の前に置いた。金属が木に触れる音は、驚くほど小さかった。こんなに小さな音で、王朝はひとつ終わるのか。
「王冠も、王位も、かつての私も、すべて返上いたします。誰かに取り上げられるのではなく、私が、手放します」
灰青の視線の先で、緋の髪がわずかに揺れた——揺れたのは髪だけだ、と私は決めた。胸の奥の拍は、まだ勝手な速さのままでいる。査定表のどの欄にも、この鼓動の費目はない。
帳簿外。
載せない。載せたら、私はこの男を採点できなくなる。採点は、まだ終わっていないのだから。
「ヴァルモンテ嬢に、お伺いいたします」
彼は床に膝をついた。誰に命じられたのでもなく。
「王冠ではなく、首輪をください」




