第39話 幕間・古い予定帳を読み返す夜(犬視点)
燭台の蝋燭は、二本ある。
セドリック・ヴェルダンテは一本だけに火を点し、卓の上に黒革の予定帳を置いた。王太子であった頃の持ち物で、いまの彼の手元に残った数少ない品のひとつだ。表紙の角は擦り切れ、留め紐は何度も結び直された跡がある。擦り切れさせたのは没落後の彼である。王太子であった十年のあいだ、この帳面はほとんど開かれなかった。
明日、彼は答えを返す。十一家の建言——王位への復帰。失ったすべてが戻るという申し出に。
彼は最初の頁を開いた。
十年前の春。十六歳の彼の予定が、侍従の手で几帳面に書き込まれている。立太子の礼。各国使節の謁見。そしてその余白に、細い字があった。
——式典のあと、東方使節は長旅の直後です。謁見は短く。労いの言葉を先に。
あの日、東方の老使節は深く頭を垂れ、若き王太子の気遣いを本国へ報じた。「思いやり深き殿下」。その評判の出どころを、彼は十年、自分の徳だと思っていた。
頁をめくる。彼の指は紙の縁にだけ触れる。彼女の字の上には、指を置かない。
夏の頁。北部の水害。彼が視察に赴き、領民に称賛された巡幸だ。余白には行程表が引き直され、立ち寄るべき村の名、避けるべき街道、村長の亡くした息子の名まで記されていた。彼はその名を呼んで悔やみを述べ、領民は涙した。名を教えたのが誰か、当時の彼は考えもしなかった。
蝋燭が半分まで減った頃、彼はあることに気づいて手を止めた。
予定帳には、彼自身の字がほとんどない。
彼が自分で考え、自分で決め、自分の手で書き込んだ予定は、十年で数えるほどしかなかった。剣の稽古。狩り。観劇。それだけだ。国に関わる頁は、侍従の字と、彼女の字で埋まっている。王太子セドリック・ヴェルダンテという男の頁は、空白だった。
そこから先は、答え合わせの作業だった。秋——即興と評判になった建国祭の祝辞は、余白に三案。彼が口にしたのは二案目だ。冬、年が変わり、また春。めくるたび、余白の字は細く増え、行間まで使われている。書く場所が足りなくなるほど、彼の穴は増えたということだ。彼が「功績」と呼ばれたものの裏に、一行ずつ、彼女がいた。ロゼリア・ヴァルモンテ。婚約者として彼の隣に立ち、彼に一度も読まれぬまま、十年ぶんの字を書き続けた女。
彼はもう一冊の手帳を懐から出し、並べて置いた。臣籍降下ののち、自分の字だけで書き始めた手帳だ。「いただいた御言葉」の頁。「女王陛下のための頁」。「女王陛下の敵」の頁。字は拙く、行は曲がっている。だが空白ではない。
二冊を並べて、彼は理解した。
王位に戻るとは、左の一冊に戻ることだ。誰かが余白を埋めてくれるのを待ち、埋められた字を自分の徳と呼ぶ男に。十一家が戴きたいのはあの空白の頁であって、彼ではない。彼らは余白を埋める側に回るつもりでいる。かつての彼女の席に、座るつもりでいる。
あの席に座っていいのは、彼女だけだった。そして彼女はもう、誰の余白も埋めない。帝国の上級儀典官は、自分の頁を自分の字で埋める人だ。
彼は最後の頁まで読み終え、留め紐を結んだ。
惜しいか、と自分に問う。名誉。立場。かつての自分。戻ると言われたものを、ひとつずつ思い浮かべる。どれも、この帳面の余白に書かれていたものだった。彼のものであったことは、一度もない。失うのではない。返す相手が、最初から別にいただけだ。
明日の答えは決まった。命じられてはいない。あの人が差し上げると言ったのは、お茶までだ。だからこれは、彼が自分の字で書く、数少ない一行になる。
彼は立ち上がり、鏡の前で襟元を確かめた。冬の夜にあの人が一度だけ直した位置。毎朝、自分の手で合わせてきた位置だ。今夜もそこにある。
蝋燭を消す前に、彼は黒革の表紙を一度だけ撫でた。
王になりたかった。その夢がいつ終わったのか、いまなら分かる。打診が届いた日ではない。この帳面を初めて読み解いた、あの査定の夜だ。余白の字を一行読むごとに、夢は彼女の手蹟へ還っていった。
王冠を戴く夢は、彼女の文字の中で、とうに終わっていた。




