第38話 犬の首輪は、自分で選ぶもの
命令は、一言で済む。
「拒否なさい」。たった五文字で、この件は終わる。喉元まで上がってきたその五文字を、私は今朝から三度、呑み込んでいた。
三度。回数まで正確に数えているのだから、私の帳簿は今日も健在らしい。
執務室の窓際に、セドリック・ヴェルダンテが立っている。手には開封済みの書状。十一家筆頭の封蝋は割られ、王位復帰の打診が、文面のかたちでそこに垂れ下がっている。
彼は読み終えてから、長いあいだ動かなかった。
私は机に向かい、属領の冬期備蓄の決裁を進めていた。羽根ペンは動く。数字は頭を素通りする。一枚の決裁に普段の倍の時間がかかっている——この遅延も、本来なら費目を立てるべきだろう。沈黙維持費。今期限りの臨時支出。
「あなた」
書状から目を上げずに、彼が言った。
「これを受ければ、私は王太子に戻ります。爵位も、宮廷の席も。……かつての私の扱いのままに」
「そうでしょうね」
「十一家は、あなたを王妃にと書いています」
「建言書なら読みましてよ。よくできた文章ですわね。実務は女に、王冠は男に——百年前から使い古された、帳簿のごまかしですわ」
それ以上、私は言わなかった。羽根ペンを置き、次の書類を引き寄せる。
彼の指が、書状の縁をなぞるのが見えた。一度。二度。あの指は、かつて玉座の間の手すりに同じように置かれていた。生まれたときから彼のものだった場所。誰も奪えないはずだった席。それが一夜で消え、いままた、紙一枚の厚みで戻ってきている。
戻れば、失ったものの全額が、封蝋ひとつで弁済される。そういう打診だった。そしてそれを捨てよとは、誰も彼に命じてくれない。十一家は受けよと言い、宮廷は値踏みし、私は——私も、命じない。
——命じれば、一言で済むのに。
衝動が、また喉元まで上がってくる。四度目。私はそれを査定台に載せ、値を付ける。命じられて捨てた王冠に、査定上の価値はない。私が「拒否なさい」と言えば、彼は捨てるだろう。即座に、迷いなく。だがそれは私の決裁であって、彼の選択ではない。他人の決裁で外した首輪を、忠誠の項目に計上することはできない。査定その五の答案用紙に、査定者が答えを書き込んでどうする。
よって、この衝動の行き先は決まっている。帳簿外。
扉が開き、家令が茶器を運んできた。湯気の立つカップが二つ、音もなく置かれる。
「お嬢様。風が冷えてまいりました」
「冬ですもの」
「左様でございますね」
家令は窓際の彼の分のカップを、わざわざ小卓まで運んでから下がった。動かない男への、この家なりの配膳だった。扉が閉まり、部屋にはまた、紙の音と湯気だけが残る。
沈黙は安くない。私が一日黙れば、十一家はその一日ぶん、次の手を打つ。それでも私はこの支出を承認した。安全な決断を買い与えるより、高くついても本人に選ばせるほうが、長期の収支は必ず良い。
「あなたは」
彼の声が、わずかに低くなった。
「私に、どうしろとは仰らないのですね」
「言いませんわ」
私は顔を上げ、彼を見た。窓の光に、緋色がかった薔薇色の髪が視界の端で揺れる。
「冷めないうちにお飲みなさい。わたくしが差し上げるのは、お茶までです」
彼は小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。それから何かを言いかけて——口を閉じた。問えば答えが返ると、まだどこかで思っている顔だった。
だから、これが最後の査定になる。
彼は書状に視線を戻した。襟元は、冬の夜に私が一度だけ直した位置のまま、今日も正しく整っている。あの位置を保つ手間を、彼は毎朝かけているのだ。誰にも命じられずに。
——だから、待てる。
陛下が書架の上から音もなく下りてきて、私の決裁の束の隅に前脚を載せた。琥珀の目が窓際の男を一瞥し、それから私を見上げる。急かすな、と読めた。猫の査定は私のものより速いが、今回ばかりは私の帳簿に合わせてもらう。
彼はまだ、窓際に立っている。書状を持つ手は下ろされ、けれど手放されてもいない。カップの湯気が細くなっていく。逡巡は長くていい。長いほど、選んだときの値は上がる。安く済んだ決断ほど、あとで高くつくものはないのだから。
私は次の書類に署名する。羽根ペンの音だけが、部屋に積もっていく。
私は黙っている。犬の首輪は、自分で選ぶものだから。




