第37話 実務は女に、王冠は男に
朝の茶が、いつもより苦く感じられた。
舌に残る渋みは茶葉のせいではない。卓上に置かれた一通の建言書——その紙の白さが、湯気の向こうで妙に堂々として見えるせいだった。
私は二口目を飲むのをやめて、書状を取り上げた。
「旧グランヴィル派の残党、と申し上げてよろしいかと存じます。連判は十一家」
家令が銀盆を抱えたまま言う。
「十一家。冬の大夜会で席を失った家が、ちょうどそのくらいでしたわね」
「左様でございますね」
建言書の中身は、要約すれば一行で済む。私の名を上げ、私の働きを残し、決裁印の欄だけを書き換える——女王ロゼリアではなく、王妃ロゼリアに。
「家令。これは、いくらに見える?」
私は書状の端を、指の背で弾いた。値踏みは、胸の内で転がすより、声に出したほうが速い。
「紙は一級品。封蝋は特注。文案は——外注でございましょう。これだけの言い回しを、あの十一家のどなたかが書けるとは思えませぬ。金貨三十枚は、下りますまい」
「三十枚で、女王を王妃に値切ろうというのね。安いこと」家令の見立てに、私は頷いた。「けれど、いちばん安いのは中身よ。妃教育の教場で、わたくしが毎朝叩き込まれた配分——女が算盤を弾き、男が冠をかぶる。十年前の在庫を、封蝋だけ新しくして出してきましたの」
十年前。私は王太子の名で布告の草案を書き、王太子の名で予算を検め、王太子の名で謁見の答弁を前夜に用意した。翌朝、教師たちは殿下の聡明さを讃え、私には「よき支えになられますね」と微笑んだ。あの頃の私は、それを誇りの費目に計上していた。今なら、正しい科目名が分かる。無償労働、対価は未収のまま、十年。
「上手いのは」家令が、銀盆の上で招待状を揃えながら言った。「どなたも悪役にならぬ点でございますね。殿下も立ち、お嬢様も報われ、誰も傷つかぬ絵に見えます。様子見を決め込んだ家には、さぞ収まりよく映りましょう」
「ええ。わたくしの要求だけが、静かに骨を抜かれる。——経理ではこれを背任と呼ぶのだけれど、世間は『丸く収まった』と呼ぶのでしょうね」
「左様でございますね。なお、すでに三つの家から、夜会の招待状が届いております。いずれも、この十一家と縁続きの家でございます」
「囲い込みが早いこと。返事はすべて保留になさい。日付だけ控えて、誰がどの順で寄越したかを台帳に。焦っている順に並ぶはずよ」
家令は一礼し、銀盆の上で招待状の角を几帳面に揃えた。
窓辺で陛下が尻尾の先だけを揺らした。琥珀の目が建言書を一瞥し、すぐに閉じる。——古い、と言ったのだと思う。同感だった。
扉が鳴ったのは、その時だ。
犬が立っていた。手には、封の切られていない書状。差出の紋は、建言書と同じ十一家の筆頭。
「あなたに、先にお見せすべきかと考えました」
「あなた宛でしょう」
「はい。王位復帰の打診と思われます」
声は平らだった。灰色の朝の光の中で、彼は背筋を伸ばしたまま、書状を両手で捧げ持っている。襟元は——正しく整っていた。冬の夜に私が一度だけ直した、その位置のままで。
封も切っていない。それをまず私のところへ運んできた。
忠実、と費目に書きかけて、手が止まる。これは忠実とは違う。査定中の犬が、査定者の前へ自分の試験問題を運んできたのだ。逃げ道ごと、まとめて。
「お返しします。あなたの名前宛のものを、わたくしが先に読む趣味はありませんの」
書状を押し返す。紙の上で指先が一瞬だけ重なって、離れた。
「読んで、あなたが決めなさい。王になりたいのなら、なればよろしい。その時はわたくしが——」
言いかけて、やめた。その先の費目を、私はまだ自分にも開示していない。
「……返答は急がないことね。連中は急がせたがるでしょうけれど、急ぐ交渉ほど、急がせている側が損をしているものですわ」
「承知しました」
犬は短くそう言い、書状を持ったまま一礼した。弁明もなければ、決意の表明もない。よろしい。減点はなし。加点は——保留。
扉が閉まる。
私は冷めた茶を下げさせ、建言書をもう一度広げた。帳面と算盤と夜更かしは女に任せ、王冠と署名と歓呼は男に返す。十年前、妃教育の教場で私が叩き込まれた国の形。そして半年前、摂政という名の簿外債務として差し出された国の形。
実務は女に、王冠は男に。——どこかで聞いた話。
違うのは、ひとつだけ。今夜あの封を切るかどうかを選ぶ手は、十年前とは違い——もう、自分で選ぶことを知っている。




