第36話 襟元
勝った夜ほど、屋敷は静かになる。
冬季大夜会から三日。グランヴィルの名は社交界の帳面から消え、私の机の上からも消えた。残ったのは、叱る理由をとうとう見つけられなかった犬が、一匹。
それが、こんなにも落ち着かない。
「お嬢様。書庫の燭台は、二本ほど足しておきました」
家令は盆を置きながらそう言った。私はまだ、書庫に行くとは一言も言っていない。
「……気が利きすぎるのも、考えものですわよ」
「左様でございますね」
左様でございますね、ではない。けれどこの男に勝てたためしがないので、私は黙って立ち上がった。
書庫の整理を口実に、私は彼を呼んだ。運ばせる帳簿などいくらでもある。理由として十分だし、理由がいることそのものについては、考えないことにした。
「こちらで、よろしいですか」
セドリックが棚の前に最後の束を置いた。声はいつも通りだった。正確に言えば、いつも通りに聞こえるよう、整えられていた。三日前まで彼が夜ごとどこを歩いていたか、私はもう知っている。知った上で、叱らなかった。叱れなかったのではない。叱らなかったのだ。そういうことに、しておく。
燭台の灯りの下で、気づいた。襟元が、わずかに乱れている。
留め具がひとつ、掛け違っている。たったそれだけのことだ。けれど彼は、こういうところを間違えない男だった。間違えないように躾けられ、間違えないことだけが許されてきた男だった。その襟が乱れているということは——無理の総量が、彼の躾を上回ったということだ。
手が、先に憶えていた。
妃教育の頃。謁見の間に入る直前、私はいつも彼の襟元を直していた。鏡より先に私が見つけ、侍従より先に私が手を出した。あれは義務だった。未来の王の襟が乱れていれば、隣に立つ私の値が下がる。だから直した。投資した資産の手入れにすぎない。そう処理して、帳簿は毎回きれいに閉じた。
彼が落ちてから、あの襟を直す者は、ひとりもいなくなった。王宮の侍従も、取り巻きの令嬢たちも、潮が引くように消えた。襟ひとつ直す手間さえ、没落した男には値がつかない。——それを私は、ずっと知らないでいられたはずだった。知らないでいるつもりだった。
「殿——」
言いかけて、舌を止めた。
十年、この襟を直すたびに呼んでいた称号が、指の動きにくっついて出かかったのだ。もう、ないものを。臣籍に下った男に、殿下はない。私が誰より先に、そう言ってやった女ではないか。
「……そこを、動かないでいなさい」
言い直した声は、自分でも分かるほど据わっていなかった。動揺などという費目は、本来この夜の予算には組んでいない。臨時支出。出どころ不明の。——帳簿外。
彼は何も聞かなかった顔で、目を伏せている。聞かなかったことにしてくれる程度には、躾が行き届いている。腹立たしいくらいに。
一歩。手を伸ばし、掛け違いを外して、留め直す。指は迷わなかった。十年前の手順のまま、布目を撫で、襟の角を立て、左右を揃える。考えるより先に終わってしまう速さで。何百回と繰り返した動きは、身分が変わっても、国が変わっても、指から消えてくれないらしい。
夜気を吸った布は冷たかった。彼の喉が一度だけ小さく動いたのが、布越しにわかった。それでも彼は動かなかった。瞬きさえ惜しむように、ただ目を伏せて、私の手が終わるのを待っていた。命令には従う犬だ。よくできた犬だ。
「……無事でよかった——とは、言いませんわ」
「はい」
「言う理由が、ありませんもの。あなたは命令に背いて、勝手に泥をかぶって、勝手に帰ってきた。褒める費目が、どこにもありませんの」
「承知しています」
「わかっていて、なさったのでしょう」
「あなたの戦場でしたから」
「わたくしの戦場なら、なおさら、勝手な手出しは越権ですわ」
「罰は、いかようにも」
罰。その言葉を、彼は値札のように差し出す。受け取れば帳尻が合う。合ってしまう。だから私は、受け取らなかった。
短い。いつも短い。短いくせに、こちらの帳簿のいちばん深い頁に、断りもなく書き込んでくる。
帳簿外。
襟は直った。直ってしまった。手を引くべき一拍を、私の指は知らないふりをした。布の冷たさの下に、生きている者の温度があった。それを確かめてしまったことは——記録しない。どこにも。
そのとき、足元を灰色がよぎった。
陛下である。猫はためらいもせず、床に片膝をついた——いつの間にそうしていたのか——セドリックの膝に前脚を掛け、それを踏み台にして窓辺へ跳び上がった。琥珀の目がこちらを一瞥する。使えるものは使う、という顔だった。
「……陛下に踏まれましたわね、あなた」
「光栄です」
真顔で言うから、性質が悪い。膝を貸した犬と、貸させた猫と、それを見ていた私。この場の貸借を整理できる帳簿は、たぶんどこにもない。
窓の外、冬の月が薄い。窓辺に収まった陛下が尻尾をひと揺らしし、灰色の縞が月明かりにほどけた。犬は片膝をついたまま、直された襟で静かに息をしている。乱れのない、正しい襟元。十年前と同じ仕上がり。違うのは、もう誰の謁見も控えていないことと、それを直した理由を、私自身が説明できないことだけだ。
直した襟元から、目を逸らしたのは私のほうだった。
【猫陛下】
本日、我が女官が、犬の襟元に手を伸ばした。直す必要のない襟であった。
人は、用のない手を、いちばん大事な相手にだけ伸ばすものらしい。——朕は、関知せぬ。
ただ、とうに見ておっただけじゃ。




