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私を捨てた殿下が、雨の門前で「犬にしてください」と跪いています  作者: イレニス
第七章 回転、そして破壊

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第35話 叱る理由の見つけ方

泥を浴びた夜の損失は、とうに費目へ振り替えてある。


残っているのは利息の回収だけだ。四百五十金貨で買われた泥——その請求書の支払期日が、今夜来る。


私は扇を閉じ、大広間の光の中へ一歩を踏み出した。


帝都サンクレールの冬季大夜会。両国の使節、銀行家、新聞社の主筆までが一堂に会する、年に一度の大きな席だ。儀典官として、この夜会の式次第を組んだのは私である。つまり、誰がどこに立ち、誰の声がどこまで届くか、すべて私の帳面の上にあるということだ。回収の席は、回収する側が設えるに限る。


グランヴィル侯爵は広間の中央で笑っていた。例の一面記事から十日。否定声明ひとつ出さない私を、沈黙は自白だと読んだ顔だ。安い読みだった。否定は商品の宣伝にしかならない。黙って原価を調べるのが、買い物上手というものだ。


「侯爵さま。せっかくの席ですもの、余興に帳簿のお話はいかがかしら」


わたくし、と表の声で笑ってみせる。周囲の耳が一斉にこちらへ傾くのが分かった。配置どおりに。


「先日来、両国の紙面を賑わせた怪文書がございますわね。あれの製作費を、わたくし、職務柄つい精査してしまいましたの」


家令に運ばせた書類の束を、銀行家たちの目の高さで開く。


「仲介人への報酬は、ある商会の名義で支払われております。商会の登記人は——グランヴィル家のご遠縁。怪文書の刷り元は、旧貴族派のご所領にある印刷所。支払いは三度の分割で、二度目の原資は侯爵家の山林売却益から、帳尻の合わない端数として捻出されておりますわ」


紙が一枚めくられるたび、広間の温度が下がっていった。銀行家が顔色を変えたのは、その端数の数字に見覚えがあったからだろう。新聞主筆が懐から手帳を出した。明日の一面は、もう書き始められている。


「捏造だ」


侯爵が叫び、広間が静かに笑った。旧貴族派の取り巻きたちが、一人、また一人と侯爵の半径から離れていく。沈む船から降りる足の速さだけは、さすがに鍛え方が違う。十日前、まさにその商品で泥を浴びせられたのは私のほうだ。同じ言葉が今、利息をつけて持ち主の元へ返っていく。密通という泥は、金で買われた捏造だったと、買った当人の声で裏書きされた。


醜聞を仕掛けた者が、醜聞の主になる。これほど安上がりな決済を、私は他に知らない。



屋敷に戻ると、陛下が階段の三段目で尻尾を一度だけ振った。上出来、というほどの意味だろう。


「家令。明日いちばんで、北の桟橋の干し魚をひと樽。陛下の戦勝祝いですわ」


「ひと樽、でございますか」


「勝った夜に主君を労うのは、臣下の務めです」


「左様でございますね。……なお、先月の樽が、まだ半分ございます」


聞かなかったことにした。陛下の戦勝に、賞味期限の話を持ち込むのは無粋というものだ。家令は外套を受け取りながら、それ以上は「左様でございますね」とだけ言った。私はまだ、何も問うていないのに。


書斎で、私はもう一度、金の経路を最初から繰った。勝った夜にこそ帳簿は締め直すものだ。そして、締めながら気づいた。


掘りやすすぎた。


商会の登記、印刷所の納品記録、山林売却の端数。私が鍬を入れた場所のことごとくに、先回りして、下から灯りが点けてあった。証拠には誰の指紋もない。ただ、掘れば必ず当たる深さへ、几帳面に積み直されていた。王宮の裏側を十年見てきた人間にしかできない仕事だ。そして、そういう人間を、私は一人しか飼っていない。


灯りを点けた者の取り分は、どの費目に立てればいい。報酬か。経費か。それとも——私は鵞ペンを置いた。仕訳に迷うのは、儀典官になって初めてのことだった。


呼んだ。犬は、呼ばれてから三十秒で来た。乱れのない敬礼。乱れのない襟。裏で十も手を回した人間の顔ではない。だから余計に、確信が深まった。


「誰が、動けと言いました?」


「あなたは、動くなと」


「ええ。命じましたわ。それで?」


彼は目を伏せなかった。


「お叱りは、受けます。——後悔は、しておりません」


弁明がない。経緯の説明も、苦労の申告もない。査定する側としては、態度に減点のつけようがなかった。だから私は項目のほうを探した。命令違反。文句なしの大項目だ。罰則規定を引けば済む。


だが、内訳を見てしまった。彼は表に出ていない。証拠に指一本触れていない。元王子という不純物を、私の決済書類に一滴も混ぜていない。金策に頭を下げて回る困窮の噂を、自分の評判の側に黙って計上し、その泥がかえって、密通などという筋書きを痩せ細らせた。私の戦場は、最後まで私のものだった。彼が、そうなるように保った。命令の文面に背いて、命令の目的だけを守る背き方を、この犬は選んだ。


減点項目の内訳が、一行残らず貸方に立っている。こんな仕訳を、私は処理したことがない。


「……下がりなさい」


それだけ言った。罰の宣告もなく、労いの一言もなく。彼は一礼して下がった。足音が廊下の先へ消えてから、私は帳面へ向き直り、今夜の決算に最後の一行を入れようとして——手を止めた。


帳簿外。


叱れなかった。叱る理由を、探せなかった。

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