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私を捨てた殿下が、雨の門前で「犬にしてください」と跪いています  作者: イレニス
第七章 回転、そして破壊

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第34話 幕間・命令の外で(犬視点)

「あなたは動かなくてよろしい」


命令は明確だった。セドリック・ヴェルダンテはそれを守る。血相を変えて新聞社に駆け込むことも、否定の声明を求めて奔走することもしない。元王子が火消しに走れば、それ自体が記事の続きになる。「やはり通じている」と、敵に二面目を書かせるだけだ。


だから、表は動かない。


裏は別だ。


夜半、彼は手帳を開いた。「いただいた御言葉」の頁を一枚飛ばし、「女王陛下のための頁」——十一頁の備え——のさらに先に、新しい見出しを立てる。


女王陛下の敵。


最初の一行に、グランヴィルと書いた。インクが乾くのを待たず、その下に線を引く。名はこれから増える。増やすのが、今夜からの仕事だった。


王宮の裏を、彼は十年見てきた。王太子であった十年、決裁の判を押すたびに、金がどの帳簿からどの袖へ流れるかを見せられてきた。あの頃は何の役にも立たなかった知識だ。臣籍に落ち、全てを失い、それでも頭の中の帳簿だけは没収されなかった。


四百五十金貨。両国の新聞一面と怪文書の束。あの規模の工作は、一つの財布では賄えない。グランヴィルは旧貴族派の中心だが、自分の金庫を傷つける男ではない。必ず誰かに出させる。出させた金は、必ずどこかの帳簿に穴を開ける。彼女はそう言った。その読みは正しい。そして穴の在処に心当たりがあるのは、王宮の決裁印を十年握っていた者のほうだ。


翌朝から、セドリックは動いた。


最初に訪ねたのは、かつて王室費の出納を預かっていた老吏だった。臣籍降下の折、彼を見限った男の一人である。屋敷の裏口で、セドリックは頭を下げた。元王子が、一介の退官吏に。老吏は長く沈黙し、それから印刷組合の納品台帳の写しを取る伝手を一つ、低い声で教えた。


「落ちぶれたものですな、殿下」


「ええ。ですから、こうしてお願いに上がれます」


老吏は鼻を鳴らしたが、扉は閉めなかった。二人目の伝手は王都の両替商で、こちらは門前で半刻待たされた。待った。待つことは、犬の得意とするところだ。


弁明はしない。落ちた者の頭は軽い。軽い頭は、いくらでも下げられる。王太子の頃には決して通れなかった裏口が、今は通れる。失ったものが、初めて道になった。


三日かけて、線が繋がっていく。記事を書かせた仲介人は、グランヴィル家の遠縁が営む商会の名で報酬を受けていた。怪文書の刷り元は、旧貴族派の所領にある印刷所。支払いは三度に分けられ、二度目はベルクール侯爵家の山林売却益から、帳尻の合わない端数として捻り出されていた。グランヴィルが筋を引き、ベルクールが財布を出す。几帳面ではない、と彼女は言った。そのとおりだった。端数が、雑だ。


手帳の頁が埋まっていく。商会の名。仲介人の名。印刷所の所在。日付と金額。一件ずつ、判を押すように書き込む。ペンを持つ手は、新聞を握り潰したあの夜の手とは別物だった。あのとき解けなかった指が、今は一字ずつ、敵の輪郭をなぞっている。証拠そのものは取らない。取れば自分の手垢がつき、彼女の追跡に「元王子の関与」という不純物が混ざる。だから在処だけを確かめ、彼女の追っている金の流れが行き着く先に、確かに穴が空いていることを、下から支えるように積んでおく。彼女が掘れば、必ず当たる深さに。


途中、社交界の末席で囁かれているのを聞いた。元王子が金策に頭を下げて回っている、いよいよ困窮したらしい、と。結構なことだ、と思った。困窮した元王子に、儀典官との色恋を仕組む余裕があるとは誰も思わない。下がる評判は、そのまま捏造の筋書きを痩せさせる。泥は、被れるうちに被っておく。


守るのではない。


その区別だけは、夜ごと手帳を閉じる前に確かめた。守れば、彼女を守られる側に——弱い者の側に置くことになる。元王子が儀典官を庇って走った、という絵は、密通の筋書きをむしろ太らせる。彼女は守られる必要のない人だ。あの人の武器は王冠の正当性であり、戦場はそこにある。グランヴィルがやったのは、その戦場に醜聞という泥を撒き、勝負の場所をずらすことだ。ならば自分のすべきことは一つしかない。泥の出どころを下から照らし、卑怯な武器を彼女の戦場から取り除き、勝負を彼女の土俵へ戻すこと。


手帳の「女王陛下の敵」の頁に、その夜、七つ目の名が加わった。インクの線は揺れていない。


守るのではない。彼女の戦場を、彼女のものに保つのだ。

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