第33話 命じられない犬
朝の紅茶が、いつもより苦く感じられた。
茶葉のせいではない。卓上に積まれた新聞のせいだ。
私は一面の見出しを、三度読み返した。
『帝国上級儀典官と元王子、密通か』
怪文書ならまだ笑えた。だがこれは、両国で発行部数を誇る新聞の一面だ。隣に積まれた怪文書の束は、いわばおまけにすぎない。
「お嬢様。社交界でも同じ筋書きが回っております。『女王位の要求は、元婚約者を王配に据えて私腹を肥やすため』——と」
「筋書きとしては三流ですわね。けれど三流ほどよく売れる」
家令が差し出した紙面に目を走らせる。記事の出どころは追えないよう細工されているが、文体に既視感があった。回りくどい敬語、的を外した断定、古い派閥の用語。
「グランヴィルね」
「左様でございますね。署名はどこにもございませんが」
「署名がないことが署名なのよ。堂々と論を立てられる者は、名を伏せたりしない」
家令は心得たもので、すでに記事の写しを日付順に揃え、出回った範囲を一覧にしてくれていた。帝都の社交紙に三本、ヴェルダンテ側の新聞に二本、怪文書は確認できただけで七種。短期間にこれだけ撒くには、相応の段取りと人手が要る。つまり、私が返書を出すより前から、この筋書きは仕込まれていたということだ。
敵に回ることは、最初から予算に組んであった。だから、動いたこと自体に帳簿の狂いはない。狂っているのは、向こうが選んだ費目のほうだ。正面から女王要求を退ける論がないから、論の代わりに泥を投げてきた。私の要求を「色恋」に書き換えれば、王冠の話は閨の話に落ちる。査定も復興も、その泥の下に埋まる。
私は記事を費目に分けてみた。両国紙への手回しでざっと金貨三百。怪文書の印刷と配布で五十。社交界の口さがない夫人たちへの茶会接待で、まあ百。締めて四百五十金貨。国一つ作り替える話を潰すには、ずいぶん安い買い物だ。安い手は、安いなりに効く。認めたくないが、よくできていた。
「反論の声明をお出しになりますか」
「出さない。否定は記事のおかわりよ。一面が『密通か』なら、翌日の一面は『儀典官、密通を否定』。向こうは紙代しか払わずに二日分の見出しを手に入れる。そんな安い増刷に、わたくしの名で箔をつけてやる義理はなくてよ」
「では、いかがなさいます」
「泥の出どころを買うの。記事を書いた手ではなく、書かせた金の流れを。四百五十金貨は、必ずどこかの帳簿に穴を開けている。グランヴィルの懐は広いけれど、几帳面ではないわ」
家令が一礼して下がりかけ、足を止めた。
膝の上の陛下が、新聞の端に前足を載せた。琥珀の目が紙面を一瞥し、ふんと顔を背ける。読む価値なし、とのお達しらしい。
「お嬢様。もう一件——」
言い終わる前に、扉が開いた。
犬が立っていた。
セドリック・ヴェルダンテ。手に同じ新聞を握り、指の節が白くなるほど握り込んでいる。普段は卓の三歩手前で止まる男が、今日は二歩で止まった。
「読みました」
「そう」
「火種は私です。私が出ます。記者の出どころを断ち、グランヴィルの周辺を——」
「お黙りなさい」
声は上げなかった。上げる必要のある相手ではない。
「あなたは動かなくてよろしい」
「……理由を、伺っても」
「動けば認めることになるからよ。元王子が血相を変えて火消しに走れば、世間はこう読むの。『やはり二人は通じている』と。あなたの一歩が、向こうの記事の続きを書く。わたくしの戦場で、敵に筆を貸すおつもり?」
「私が火種である事実は、変わりません」
「火種に罪はないわ。火を点けた手の罪よ。それに——」
私は新聞を畳み、卓の端へ押しやった。
「これはわたくしの名誉の話。わたくしの名誉は、わたくしが守る。査定中の犬に守られた名誉に、いくらの値がつくとお思い?」
犬は黙った。弁明をしない男だ。それは知っている。だが今、この男の喉の奥で何かが軋んでいるのは、卓を挟んでいても分かった。
「わたくしの名誉は、わたくしの費目ですわ。あなたに払わせる勘定ではなくてよ」
「……承知しました」
承知、と言った。言って、動かなかった。新聞を握る手だけが、まだ解けていない。膝の上の陛下が頭を上げ、男を一瞥して、また丸くなった。吠えもしない犬に、警戒の必要はないとの御意だ。だが私には、その静けさのほうが、よほど張り詰めて見えた。
泥は私が拭う。拭い方も、すでに三通りほど思いついている。局面は読めている。ただ——目の前で伏せたまま、行き場のない牙を噛み締めている犬を見て、私は帳簿に載らない問いを一つ、抱えてしまった。
命じられない犬は、何のために牙を持つのか。
【家令】
本日は、いささか苦いお話にございました。
ご案じなさいますな。明日の献立には、甘いものを一品、お付けする手筈に。苦いあとには甘い、その順序を違えぬのが、四十年の役にございますれば。
左様でございますね。




