第32話 空気の請求書
使節の馬車が角を曲がって消えても、私は窓辺を離れられずにいた。
指先が机を叩く。とん、とん。拍は揃っているのに、胸の奥だけが揃わない。
十年。あの国が私から無償で徴収し続けた歳月の、勘定がまだ合っていないからだ。
「お嬢様。お茶が冷めましてございます」
家令が新しいカップを置き、冷めたほうを音もなく下げた。陛下が窓台から下り、机に飛び乗って、提案書の写しの端を前足で押さえる。文鎮を務めてくださるおつもりらしい。
表に立たぬ摂政格。実務と責任は負え。御名は公式記録には残さない。
「——よくできておりますわね。詐欺の文面として」
私はペンを取り、余白に線を引いた。借方、王国の存続。貸方、空欄。
「家令。この取引、貸方には何が立つと思う?」
「感想を申し上げる役ではございませんが——世間の帳面でしたら、この欄には『感謝』と書くところにございましょう」
「感謝は資産に計上できないの。減価しない代わりに、換金もできないもの」
「左様でございますね。では、その下に『名誉』とも」
「記録に残さないと先方が明記しているわ。名誉の不記載——つまり、無形資産ですらない無形。帳簿係が見たら卒倒する科目ね」
家令はわずかに目元をゆるめ、それ以上は言わなかった。長い付き合いだ。私が値踏みを終えつつあることを、この人は茶の減り方で読む。
責任だけを記帳して、権限を記帳しない。そんな複式簿記は世界のどこにも存在しない。存在しない帳簿を押しつけてくる相手に返す答えは、ひとつしかなかった。
断る——だけでは、足りない。断れば王国は別の誰かを探し、見つからず、ゆっくり沈む。沈む船には民が乗っている。あの三人の使節の後ろには、税を納め、道を直し、冬を越す人々がいる。彼らは私を軽んじた覚えなどないだろう。費目が違うのだ。王宮の負債と、民の暮らしは。
だから、断った上で、こちらの条件を置く。
扉が開き、犬が戻ってきた。使節の馬車を見送り終えた顔だ。
「あなたに聞いておきたいことがあるの」
私は提案書を指で叩いた。
「わたくしが摂政を断り、代わりに王冠を要求したら——あなたの生まれた国は、形を変えることになる。元王子として、ひとことくらいは許して差し上げますわ」
犬は提案書を見、それから私を見た。
「正しい勘定だと、思います」
「それだけ?」
「あの王冠は、責任を持たない者の頭に載り続けました。次は、持つ者の頭に載るべきです」
短い。だが利息のついた答えだった。十年ぶんの。
「下がっていいわ。——ああ、ひとつだけ」
戸口で振り返った犬に、私は付け加えた。
「形が変わっても、査定は続くから」
「承知しております」
一礼。閉まる扉。陛下が尻尾の先だけを揺らした。合格点には早い、と仰せである。私もそう思う。
夜、私は返書を書いた。
書き出しを、私は一度だけ破り捨てた。丁寧すぎたのだ。あの下書きを整えた男——グランヴィルの目に、譲歩と読まれる隙を渡すつもりはない。二度目は商人の流儀で書いた。前文は最小限、本文は科目ごと。
——摂政の儀、お受けいたしかねます。名を伏せた責任とは、すなわち簿外債務。わたくしの家の帳簿に、簿外の項目は一行たりとも存在いたしません。
——それでもなお、貴国がわたくしに国の責任をお求めになるのなら、条件はただひとつ。王冠を差し出しなさい。
名もなく権限もなく、実務と責任だけを背負う摂政にはならない。なるのなら、女王だ。国を焼きはしない。民から取り立てもしない。ただ、二度と私を軽んじることのできない形に、あの国を作り替える。解体ではなく、再編。焦げつき寸前の家門を立て直すのと、原理は同じだ。
「この返書が国許に届けば」封蝋の支度をしながら、家令が言った。「グランヴィル侯爵は、表立ってお嬢様の敵に回りましょう。——ずいぶん、書き出しに手間取られたご様子で」
「丁寧に書けば譲歩と読まれ、短く書けば癇癪と読まれる。あの男の目を二度くぐらせるには、商人の字がいちばんですわ」私は印章を取り上げた。「それに、敵という費目は、最初から予算に組んでありますもの」
あの提案の下書きに筆を入れた男。王権の体面を最優先する、あの文体——ああいう手合いが牙を剥くのは、私が「いいえ」と言った瞬間ではない。「女王に」と言った瞬間だ。守りたいのは国ではなく、国の上に並ぶ椅子の順番なのだから。
封蝋に印章を沈める。陛下が机の端から、琥珀の目でその赤を見届けた。よし、と仰せである。
これは復讐ではない。請求だ。十年、あの国は私の働きを空気のように吸い込み、空気のように勘定から外してきた。整えた式典も、繕った外交も、夜更けに引き直した予算も、すべて誰かの手柄の欄に書き込まれて、私の欄は白いままだった。白い欄に、今夜、初めて私自身の手で金額を入れる。
利息は十年複利。支払いは、王冠で。
空気は無料ではないと、教えて差し上げます。




