第31話 王宮は、跪き方も知らなかった
跪く、という動作には正しい作法がある。
十年、王宮の儀典でそれを教えてきた私は、誰よりもよく知っている。
頭を下げるだけなら、誰にでもできる。差し出すものを差し出してこそ、跪拝は完成するのだ。
ヴェルダンテ王国の正式使節が屋敷に到着したのは、午後の茶の時間だった。先触れの書状には国璽。つまり今度は打診ではない。国としての、正式な泣きつきである。
応接間に通された使節は三人。筆頭は外務卿補佐——だった男だ。外交が破綻した国で、外務の肩書きはもう飾りでしかない。残る二人は財務と宮内の官。つまり、金と体面。この国が今いちばん失いかけているものを、そのまま人選にしたような顔ぶれだった。
「遠路、ご苦労様でした。お掛けになって」
私が促すと、三人は揃って腰を下ろした。揃いすぎている。出立前に、誰かが座る順まで決めてきたのだろう。準備のよさは結構なことだ。準備する相手を、十年前から間違えているだけで。
「ロゼリア様。王国は、危急の秋にございます」
使節は語った。隣国との交渉は三件続けて決裂し、貴族派閥は三つに割れ、国庫は今期の俸給の支払いすら危ういと。誇張ではないだろう。私の手元に届く報せと、数字がほぼ一致する。むしろ控えめなくらいだ。儀典の予算が真っ先に削られた、という一点だけは口にしなかったが——格式を司る費目から削る国は、外側から枯れる。十年前に申し上げた通りになっただけのことである。
「そこで、陛下ならびに枢密院の総意として、お願いに上がりました。——どうか、王国にお戻りいただきたい」
来た。私は茶器を置き、続きを待った。条件の部分こそが、本題だ。
「ロゼリア様には、摂政として……いえ、正確には、表には立たぬ形での摂政格として、国政の実務を統べていただきたく。御名は公式の記録には残さず、あくまで陛下の御代として——」
「整理いたしますわ」
私は指を一本立てた。
「王冠は王家に。名誉も王家に。玉座の体面も王家に。そして実務はわたくしに、失敗の責めもわたくしに。——費目で申せば、それは雇用ではなく、寄付ですわ」
使節の喉が小さく動いた。けれど筆頭は、ここで退かなかった。咳払いをひとつ落とし、用意してきたであろう論を、ようやく本気で押し出してくる。
「……御名を伏せますのは、ロゼリア様をお守りするためにございます」
「お守り。まあ。どなたから?」
「世間の口からでございます。女が——いえ、お一人の御方が国政の表に立たれれば、各方面との摩擦は避けられませぬ。旧きを重んじる家、隣国の宮廷、教会。お名前が記録に残れば、その都度、矢面に立たれるのはロゼリア様ご自身。御名を伏せておけば、瑕は王家がかぶり、ロゼリア様には実だけが残ります。これは、防壁にございます。決して、軽んじているのではなく」
一山きた。摩擦、防壁、瑕は王家が。——差し出すべき条件を握ったまま、護りの言葉だけを重ねる。よく組まれた積み方だ。
「よく出来た目録ですこと」私は微笑んだ。「では、こちらも費目ごとに検めてさしあげましょう」
「は——」
「摩擦を避けるための無記名。瑕を王家がかぶる、という保険。実だけが残る、というお見立て。——三項とも、貸方が空欄ですわね」
財務の官が、救いを求めるように筆頭を見た。筆頭の喉が、今度は私のときより大きく動いた。
「借方に『一国の実務と全責任』、貸方に『無記名』。これほど美しく傾いた貸借対照表を、わたくしは他に知りませんの。摩擦を避ける防壁、と仰いますけれど。帳簿の言葉では、それを簿外債務と申します。確かに存在するのに、決して記載されない。——国を支える者を簿外に置いて、傾かずに済んだ国を、あなた方はご存じ?」
「……っ」
「ご存じないでしょう。十年、わたくしがその簿外でしたもの」
宮内の官が扇を握り直した。財務はもう筆頭を見ていない。筆頭だけが、まだ言葉を探している。探して、見つからずに、出てきたのが——これだ。
「……前に出られれば、その、各方面との、摩擦が」
二周目だった。同じ建前が、もう一度。在庫が尽きた商人が、棚の奥から同じ品を出し直すように。
「摩擦。先ほども伺いましたわ。便利な言葉ですこと。わたくしが前に出ると都合の悪い方々が、まだ王宮で椅子を温めていらっしゃる、と正直に仰ればよろしいのに」
使節は頭を下げた。深く、訓練された角度で。けれどその手は、何ひとつ差し出していない。王冠も、地位も、名すらも。頭だけを下げて中身を渡さない者を、王宮ではかつてこう呼んだ——交渉上手、と。私はそれを別の名で呼ぶ。在庫の水増しである。
ふと、口上の文面に引っかかった。「陛下の御代として」——この回りくどい護り方には覚えがある。王権の体面を何より優先する、あの旧側近筆頭の文体だ。書状の封蝋を検めるまでもない。この提案の下書きには、グランヴィルの手が入っている。
頭を下げさせておいて、差し出す条件は自分たちで握る。公聴を潰しに来た男が、今度は私を縛りに来た。
扉の脇に控えていた犬が、半歩前に出た。
「……お帰りの馬車を、手配いたします」
短く、それだけ言った。よく躾けられた判断だ。採点はしないが、手帳には書いておくとよい。
「使節殿。本日の口上、一言一句、国許へお持ち帰りなさい。返答はそれからですわ」
三人が退がった応接間で、灰色の陛下が窓辺から一声鳴いた。翻訳するなら——騒がしい連中だった、の意である。
まったくだ。十年仕えた古巣の、なんと変わらないこと。
王宮は、跪き方も知らなかった。




