第30話 よく、我慢しました
採点の日は、朝から指先が落ち着かない。
点を付けられる側ではなく、付ける側だというのに、おかしな話だ。
私は屋敷の応接室で、査定その四の綴りを三度めくり直した。
報われない仕事。それが今回の課題だった。礼状ひとつ出ない慰問品の仕分け。誰も検めない倉庫台帳の照合。やり遂げても拍手はなく、しくじれば叱責だけが残る種類の仕事。儀典官として十年やってきた私には分かる。宮廷の仕事の九割はこれでできていて、九割を腐らずに回せる人間だけが、残りの一割を任される。
王子だった頃の彼は、その九割を全部、誰かに押し付けて生きてきた。だからこそ、これを課した。
彼は一度、しくじった。荷札を取り違え、慰問品の半分が別の修道院へ送られかけた。普通の元王子なら、ここで言い訳の一つも並べるところだ。だが彼は弁明をしなかった。翌朝までに全件を検め直し、誤送の経路を自分の手で図に起こし、再発防止の手順書を添えて、黙って提出してきた。誰に見せるためでもなく。手順書の字は、夜明け前の字だった。線が細く、それでも一画も省いていない、ああいう字。
採点者として困るのは、こういう提出物だ。減点の理由は明確にあるのに、加点の理由が頁の隙間から滲んでくる。私は朱筆を三度持ち、三度置いた。
「犬。おいでなさい」
呼ぶと、扉が音もなく開いた。セドリックは入室の礼を正確に三歩でこなし、私の机の前に立つ。背筋は定規のよう。ただ視線だけが、私の手元の綴りに、ほんの少し吸い寄せられている。
「査定その四の結果を申し渡しますわ。わたくし、採点は厳格ですわよ」
表の声を出すと、彼の肩がわずかに整った。
「慰問品の仕分け、完了。倉庫台帳、誤差ゼロ。誤送事故一件——ただし当夜のうちに自力で是正、防止策の添付あり。以上、忍耐費として計上。摘要欄には」
私はペンを置いた。
「よく、我慢しました」
彼の目が、上がった。灰色の目の奥で、何かが一瞬だけ明るくなる。ろうそくの芯が立つときの、あの小さな光。そしてすぐに伏せられた。明るくなったこと自体を私に検算されては困る、とでもいうように。
——今のは、どの費目に付ければいいのだろう。
帳簿外。
「それから」私は咳払いをした。「猫が、あなたの皿から食べたそうですわね」
「はい。昨夜、三口ほど」
「三口」
「四口めは威嚇されました」
真顔で言うものだから、こちらの頬が緩みそうになる。あの猫は王宮一の人嫌いで、王子の差し出す皿を二月のあいだ無視し続けた獣だ。報われない仕事の報酬が猫の三口とは、利回りとしては最悪の部類だろう。それでも彼は、三口、と数えて覚えている。指折り数えて、たぶん威嚇まで律儀に記録している。
「その三口は雑収入に計上なさい。課税はしません」
「寛大な措置に感謝いたします」
「本当に犬ね、あなた」
「お許しいただけるなら」
敬語の角がひとつも崩れない。崩れないまま、見えない尻尾だけ振っているのが分かる。
「……下がってよろしい。次の課題は追って言い渡します」
彼が一礼して退出したあと、入れ替わりに家令が茶を運んできた。盆を置きながら、老家令は声を落とす。
「ご報告がひとつ。あの方の手帳でございますが——『いただいた御言葉』の頁の後ろに、新しい頁が増えております。表題は、『女王陛下のための頁』と」
「……女王?」
「儀典の手順、季節ごとの献立の好み、お疲れの日の茶葉の銘柄。万一あなた様がいずれ高い座に就かれた折に備え、今のうちから整えておくのだそうで。ご本人は隠しているおつもりのようですが、栞の紐が新しいので、すぐに分かります」
「……それで、その頁はどれくらい埋まっているの」
「拝見した限りでは、すでに十一頁。一番新しい行は、本日の茶葉の銘柄でございました」
家令は一礼して下がった。
私は茶碗を持ったまま、しばらく動けなかった。十一頁。私が彼に渡した言葉は、まだ六つしかないのに。受け取った側の頁のほうが、先に厚くなっていく。そんな帳簿の付け方があるだろうか。
備えるのが早すぎるのよ、あの犬は。誰も頼んでいない頁を勝手に増やして、誰にも見せずに埋めていく。報われない仕事が、得意になりすぎている。これは査定項目の外——いいえ、もう、どの台帳にも載せようがない。
茶をひとくち。銘柄は、疲れた日のためのものだった。手帳の一番新しい行が、湯気の向こうで効いている。先回りの利息は受け取らない主義なのに、喉だけが正直に温まっていく。
私はまだ、女王ではないのだけれど。
【王子】
——犬の手記より。
『よく、我慢しました』。本日、頂戴した言葉。
何点だったかは、書かない。書けば、目減りする気がする。
ただ、すぐ読み返せる場所に、栞を一つ。




