第29話 抜き打ち監査
馬車の中で、私は三度、自分に言い聞かせていた。
これは心変わりではない。監査である。
言い聞かせる回数が三度を超えた時点で何かが破綻している気もするが、帳簿に「自己説得費」という費目は存在しないので計上しない。
「お嬢様。本日のお出ましの名目を、念のため伺っても」
向かいの席で、家令が静かに言った。侍女ではなく家令を選んだのは、この男が事実しか口にしないからだ。事実しか口にしない人間は、こういう日にいちばん危険でもある。
「視察ではありませんわ。抜き打ち監査です。査定対象が無申告で労働しているのなら、確認するのは雇い主の義務。経費は『資産価値確認・現地調査費』で計上なさい」
「左様でございますね」
家令は一礼した。その一礼が、長い。長い一礼とは、だいたい笑いを噛み殺すための時間である。
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「いえ。お嬢様は『見に行かない』と仰せでしたので、本日は『見に行く』のではなく『監査に行く』のだと、正確に記憶し直しておりました」
「結構。記憶は正確が一番ですわ」
私は窓の外へ目をやった。この家令の記憶力は、時々、剣より鋭い。
「ちなみにお嬢様、本日の往復の馬車代と、念のためご用意した外套の代金は、どの費目に」
「現地調査費に含めなさい。外套は——人目を避けるための監査用備品です」
「左様で。備品台帳に『監査用外套・一着』と記載いたします。後年どなたかがご覧になっても、何も伝わらない名目でございますな」
伝わらないのが目的である。私は答えず、外套の前を掻き合わせた。
慈善院の門は、半分だけ新しかった。崩れた側から直したのだろう。私と家令は門の陰に立った。監査の基本は、対象に気取られないことである。
最初に届いたのは、罵声だった。
元王子派の貴族が——名は帳簿に控えるだけにしておく——馬上から泥を投げ、落ちぶれた、恥知らずだと声を荒らげていた。あの男は、泥の跳ねた顔のまま、ただ深く頭を下げた。弁明はひとつもなかった。貴族が去ると、彼は顔を拭いもせず井戸へ戻り、袖をまくって、泥を素手で掻き出し始めた。
手袋を支給した覚えはある。使っていない。子供らの水汲み桶に革の匂いを移したくないのだろう、と理由がすぐに分かってしまう自分が、少しだけ腹立たしい。
中庭で子供が転んだ。彼は駆け寄らなかった。歩いて行き、子供の前に膝をついた。泥の地面に、膝を。王宮の床にすら容易に膝をつかなかった男が、である。名乗りもせず、擦り傷に布を巻いて、それで終わりだった。子供は彼の名を知らない。報酬はなく、観客もいない。
——いや、二名いる。だがこれは観客ではない。監査官である。
「お嬢様」
家令が小声で言った。
「あの方は、これらを一行もご報告なさいませんでしたな。侍女六名の再就職も、修道院への嘆願書も、署名は『一介の俗人』であったと聞き及びます」
「知っています。報告のない労働は帳簿に載りません。載らないものは存在しないのと——」
同じだ、と言い切るつもりだった。口が、途中で止まった。
存在しないはずのものが、目の前で井戸の泥を掻いている。帳簿というものは、時々こうして現物に裏切られる。
薪小屋の脇に、欠けた皿がひとつ置いてあった。干し魚。あの男が毎日置いては、毎日引っかかれてきた皿だ。
塀の上から、灰色の塊が降りた。陛下である。もはや痩せてなどいない、どちらかといえば財政の極めて健全なあの猫が、地面に降り、皿の前で足を止め、長いこと男を見た。男は手を止めたまま、見返さなかった。視線を返さないというそれだけのことを、彼はこの数十日でようやく学んだのだ。
かり、という音がした。
陛下が、初めて、彼の皿に口をつけた音だった。
あの男の肩が、ほんの少しだけ下がった。崩れたのではない。荷を降ろした者の肩だった。誰にも褒められない場所で、猫一匹に、彼はようやく受け取られたのだ。
胸の奥で何かが動いた。その数値は計上しない。帳簿外。
代わりに監査所見として一行だけ記す。私の犬は、帳簿の外でも働く。査定額の根拠としては不適切だが、所有者の所感としては正当である。あれを拾ったのは、存外、良い買い物だったのかもしれない。
「お声をお掛けにならないので」
「掛けません。対象に知られず終えるのが監査の最上ですわ。それに、この髪は人目を引きますもの」
「左様でございますね。本日は雲が多くて、何よりでございました」
緋色は曇り空の下でも緋色だ、という意味の嫌味である。私は聞かなかったことにして、踵を返した。門の陰を出るとき、一度だけ振り返らなかった。振り返らないことに、一度だけ、という回数が付く時点で何かが破綻している。これも計上しない。
馬車が動き出す。所見の末尾に、私は胸の内でもう一行だけ書き足した。
あの、かり、という音を、彼は一生忘れないだろう。




