第28話 幕間・褒められない場所(犬視点)
灯りを落とした下宿の机で、セドリック・ヴェルダンテは帳面を開いていた。
「いただいた御言葉」と表紙に記した、薄い帳面である。彼女から与えられた言葉を、日付とともに書き留めてきた。賞賛は一つもない。命令と、訂正と、ごく稀の「悪くありません」。それだけで構成された帳面だ。
今夜、最後の頁にはこう記されている。
——待て、と言ったはずです。
書き写した自分の手は、震えなかった。震える資格がないことを、手のほうが先に知っていた。
なぜ、彼女の名を借りたのか。
セドリックは順を追って考える。弁明のためではない。弁明は禁じられている——誰よりも、自分自身によって。
慈善院の再建は遅々として進まなかった。侍女たちの再就職は門前払いが続いた。リュシー・メルローの保護に至っては、引き受け先の修道院から三度断られた。報われない仕事だと、最初から聞かされていた。耐えているつもりだった。
つもりだった、という言葉の薄さを、セドリックは認める。
耐える者は、成果を急がない。成果を急いだのは、見せたかったからだ。誰に。彼女に。何のために。
——褒められたかったのだ。
書いてみると、ひどく単純な答えだった。金茶の目が、自分の文字をしばらく見下ろしていた。報われない仕事に耐える男を演じながら、その演技の出来を、当の彼女に採点してほしかった。それは耐えることの正反対である。査定その四の課題は仕事の完遂ではなく、報われないことそのものに耐える性根だったのに、自分は四日目で報酬を欲しがった。犬で言えば、命じられる前に芸をして、皿の前に座った。
帳面に一行を加える。
——殿下は褒められたがった。事実として記す。
ペンを置き、セドリックはもう一つの宿題に向き合った。
リュシー・メルローのことである。
保護の手続きのため、先日、彼女と短く面会した。男爵令嬢は深く頭を下げ、こう言った。「わたし、王妃さまになりたかったことは、一度もないのです。ただ、断り方を知らなかっただけで」
あのとき、セドリックは儀礼的に頷いただけだった。机の上の冷めた茶と、繕い直された袖口と、頭を下げたまま動かない細い肩。それらを見ていながら、何も見ていなかった。今になって、その言葉の重さが分かる。
リュシーは王妃の座を欲しがったのではない。王太子であった自分が婚約を破棄し、選んだ、と世間が言う。だが選んだのは自分一人だ。彼女は、自分にその器がないことを誰より正確に知っていて、それでも王太子の言葉を断る術を持たない、ただの善良な娘だった。器がないと知ることは、卑下ではない。あの娘が持っていたのは、自分が長く持たなかった種類の正直さだ。
その娘を巻き込み、立場を失わせたのは自分である。保護は罪滅ぼしですらない。後始末だ。後始末に、誰かの賞賛はいらない。
翌朝から、セドリックは働き方を変えた。
慈善院の現場には、これまでどおり通った。ただし、進捗を誰にも報告しなかった。彼女のもとへ成果を運ばず、屋根の梁を運んだ。職人たちは王族だった男の掌に肉刺が潰れるのを見て、何も言わずに手袋を一双投げて寄越した。礼を言い、受け取った。それも報告しなかった。侍女の再就職先には紹介状ではなく、雇い主が断れなくなるまで足を運んだ。一人の口を決めるのに、十一度も頭を下げた家があった。その報せも、自分からは届けなかった。
リュシーの修道院の件は、もう自分の名で扉を叩くのをやめた。王子の名では三度断られた扉が、一介の俗人として書いた嘆願には開いた。元王太子の名にもはや力はないが、力のない名で通すことに意味があった。借り物の名で開く扉なら、開かないほうがいい。
そうした日が、五日続いた。誰も褒めなかった。誰にも見せなかったのだから、当然である。最初の二日は、その静けさに何度も手が止まった。三日目から、止まらなくなった。
夕刻、帳面を開く。御言葉は増えていない。彼女に会っていないのだから当然だ。空白の頁を前に、セドリックは気づいた。
見られている間の働きは、誰でもできる。査定とは、彼女の目が届かない場所に置かれた時間のことだ。この空白の頁こそが、いま受けている試験なのだ。
帳面を閉じ、灯りを消した。
褒められない場所でだけ、人は試されている。




