第27話 待て、と言ったはずです
報せを受けたとき、私は手にしていた羽根ペンを、音を立てずに置いた。
インク壺の蓋を閉め、書きかけの目録を裏返す。
それから、ゆっくりと息を吐いた。怒鳴るためではない。怒鳴らないためにだ。
報せを運んできたのは儀典局の若い書記官だった。曰く——男爵令嬢リュシー・メルローの身柄保護をめぐり、市政庁の窓口で元王子セドリックが「帝国上級儀典官ロゼリア・ヴァルモンテの預かり案件である」と告げた、と。
事情は分かっている。リュシーの保護は難航していた。後ろ盾のない令嬢の身柄は、書類の上では誰のものでもなく、だからこそ誰もが後回しにする。市政庁は管轄を盥回しにし、彼女を体よく囲い込みたい貴族が横から手を伸ばす。三度目の申請が突き返された、というところまでは私も把握していた。
それでも、だ。
私の名は、便利な鍵だろう。帝国上級儀典官の預かり案件と聞けば、市政庁の役人は管轄争いをやめて書類に判を捺す。横から手を伸ばしていた貴族も、火傷を厭うて指を引っ込める。一言で扉が開く。三月の苦労が一日で片付く。だからこそ、使ってはならなかった。鍵で開けた扉の先に、あの人が示すべきものは何ひとつ残らないのだから。
「あの犬を、お呼びなさい」
声が低くなっているのが、自分でも分かった。書記官が一礼して走っていく。
待つあいだ、私は窓の外を見なかった。帳簿も開かなかった。机の上の何もない一点を見ていた。査定その四を言い渡した日のことを思い出す。報われない仕事を三つ。見に行かない、褒めない、と私は言った。あの人は頷いた。頷いたはずだった。
扉が叩かれた。
「お呼びと伺いました」
セドリックは雨に降られたのか、外套の肩が濡れていた。市政庁から走って戻ったらしい。それでも息は整えてある。そういうところだけは、躾が行き届いている。
「市政庁で、わたくしの名をお出しになったそうですわね」
「はい」
否定しない。それは結構。
「リュシー嬢の三度目の申請が却下されたことは、聞いております。横から手を回す者がいることも。お急ぎになりたかったのでしょう」
「はい」
「ですが——いえ」
私は言い直した。あの人に禁じた言葉を、私が使うわけにはいかない。
「殿下。待て、と言ったはずです」
セドリックの喉が、小さく動いた。
「査定その四は、報われない仕事ですわ。誰の名も借りず、誰にも褒められず、それでも手を止めずにいられるかを見るためのもの。わたくしの名で扉が開いたのなら、開けたのはあなたではございません。わたくしです。その瞬間、あなたのなさったことはすべて、虎の威を借りた犬の遠吠えに変わる。——おわかりですか。あなたが三月かけて積んだものを、あなたご自身が、たった一言で帳消しになさったのです」
声は最後まで上げなかった。上げる必要がなかった。低く、丁寧に、一語ずつ机に置いていけば足りる。怒鳴り声は相手の耳を閉じさせるが、低い声は逃げ場を残さない。
「リュシー嬢の件は、わたくしが市政庁に一筆入れます。名が出てしまった以上、放っておけばあの子の立場のほうが悪くなりますもの。後始末の費目は、そうですわね——『教育費』として計上いたします」
「……はい」
「査定その四は、最初からやり直しです。リュシー嬢の保護は課題から外し、別の仕事を申し付けます。異存は」
「ございません」
短い返事だった。弁明は一言もなかった。言い訳の材料なら、この人の手の中にいくらでもあったはずだ。妨害があった、窓口が動かなかった、リュシー嬢の身が危うかった——どれを差し出されても、私はおそらく一度は耳を貸した。事実、半分はこの人のせいではない。書類を三度突き返したのは市政庁で、横槍を入れたのは名も知らぬ貴族で、雨を降らせたのは空だ。それでも、最後の一言を選んだのはこの人で、この人はそれを知っている。だから全部、黙って呑み込んだ。呑み込めるようになったことを、褒めてやるわけにはいかないのが、査定というものの不便なところだ。
濡れた外套のまま、セドリックは深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
そのまま、しばらく動かなかった。下げられた頭の向こうで、この人が何を数えているのかは分からない。突き返された申請の枚数か、リュシー嬢の心細げな顔か、それとも——自分の手では開けられなかった、あの窓口の小さな扉の重さか。
やがて顔を上げたとき、あの人は静かに言った。
「申し訳ございません。次は、もっと上手に待ちます」
私は頷かなかった。頷いてやるのは、まだ早い。
ただ、裏返していた目録を表に戻して、言った。
「外套をお乾かしなさい。犬の風邪は、査定の予定に入っておりませんので」
【猫陛下】
本日、犬が叱られておった。『待て』と言われて、ちゃんと待っておった。健気な獣じゃ。
案ずるな。明日は、朕の機嫌が少しばかり良い。犬にも、息のつける一日が来る。
皇帝が、そう決めた。——以上である。




