第26話 帳簿に書けないもの
報告を聞くだけだ、と決めたのは私だった。
だから、胸の奥が勝手にざわつく分まで、誰かのせいにはできない。
見に行かないという宣言の利息を、私はいま自分で払っている。
午後の茶の時間、家令は菓子の盆の隣に報告書を載せて現れた。茶よりも報告のほうが濃い顔をしていた。
「査定の経過報告ですわね。聞きましょう」
私は帳簿を開き、ペンを構えた。聞いたものはすべて費目に落とす。落とせるものは、すべて。
「慈善院の件でございます。あの方は人夫を雇う資金をお持ちでないので、ご自身で手押し車を引いておられます。資材の運搬、本日までで延べ三十往復ほどかと」
「費目は人件費。単価はゼロね」
「左様でございますね。井戸は腰に縄を巻いて、ご自身で浚われました。半日がかりで泥と瓦礫を運び出され、上がってこられたお姿は、人足と見分けがつかなかったそうで」
「見分けがつかないのではなくて、人足なのよ。いまは」
「子供たちには名乗っておられません。子供たちは『泥の兄ちゃん』と呼んでいるそうでございます。名乗れば施しになる、名乗らなければただの人足だから、と」
ペン先が一瞬だけ止まった。帳簿のどの行に書くべきか、迷ったせいだ。広告宣伝費——違う。名乗らない働きは、宣伝にならない。あの男は元手のない男のくせに、いちばん値の付かない売り方ばかり選んでいる。
「続けなさい」
「モンクレフ伯爵が現場にお見えになりました。『泥をかぶった王子ごっこか』と仰せになり、泥を投げつけられたと」
モンクレフ伯。かつての王子派の筆頭で、賭けに外れた側の男だ。負けた馬券を破り捨てる代わりに、馬に投げつけに来たらしい。
「それで」
「あの方は頭をお下げになりました。そのまま伯爵の領地から古材を譲り受けるお約束を取り付けて、お帰しになったそうでございます」
罵声は換金できない。受け取っても帳簿は一行も増えない。だが古材は資材調達費の節約として記帳できる。泥を一杯かぶって木材が一山なら、悪くない為替だ。あの男は罵られながら、ちゃんと仕入れをして帰ってきた。
「侍女たちの件は」
「十一名のうち六名、再就職が決まりましてございます。かつての臣下のお屋敷を一軒ずつ回られ、頭をお下げになったと。玄関先で半刻お待たせされたお屋敷もございました。あの方は『待つのは得意になりました』と仰ったそうで」
得意になった、ではない。なりました、だ。誰かにさせられた過去形。——私にさせられた過去形。ペンの先で帳簿を二度叩き、記帳は保留にした。保留の欄ばかりが増えていく帳簿は、よい帳簿ではない。
「リュシー・メルロー嬢の保護先は」
「北の修道院が承諾いたしました。受け入れの条件も先方の提示のままで。嘆願書の署名は『一介の俗人』とのみ」
王子の名で書けば、修道院は断れない。断れない相手の承諾は、承諾ではない。あの男はそれを知っていて、名を捨てた紙を差し出した。費目、信用取引。担保、無し。利率、不明。
「それから、陛下の件でございますが」
家令の声がほんの少しだけ柔らかくなったので、私はペンを置いた。
「陛下はまだ皿に近づかれません。皿の手前で、少し離れてお座りになって、お待ちになるだけで。すっかり恰幅のよくなられたお身体で、それはもう堂々と。昨夜、あの方が皿を少し押し進めようとなさったところ、手の甲を引っかかれました」
「当然ね。距離を詰めるのは陛下の専権ですわ」
「左様でございますね。あの方は手当てもなさいませんでした。今朝も同じ時刻に同じ場所へ皿を置いて、『陛下のご機嫌は長期投資ですから』と——笑っておられました。引っかかれた手の甲を、袖の陰に隠して」
帳簿を見下ろした。人件費、資材調達費、信用取引、保留。今日の報告はおおむね記帳できた。最後のひとつを除いて。
手当てをしない傷は、費目にならない。隠された手の甲は、損にも得にも振り分けられない。
帳簿外。
「お嬢様」家令は空になった茶器を下げながら、ごく静かに言った。「一度、ご覧になっては」
「何をかしら」
「セドリック様の現場でございます。報告書では落ちるものもございますので」
落ちるもの。この家令は、私がペンを止めた箇所を全部数えていたに違いない。
「わたくしは見に行かないと言ったのよ。査定の途中で査定人が顔を出すのは、採点に響きますわ」
「左様でございますね」
家令は一礼して下がった。その「左様でございますね」は、まったく左様だと思っていない者の言い方だった。
私はペンを取り直し、帳簿の今日の頁を閉じた。インクはきれいに乾いていた。記帳は済んだ。査定は続いている。何の問題もない。
それなのに、閉じた頁の外に、書けなかった一行だけがいつまでも残っている。
引っかかれた手の甲を、彼は隠して笑った。




